讃美歌 520
イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」(マルコ14:61−62)
Ⅰ.神の大法廷
きょう、皆さんと共に聞く〈生ける神の言葉〉はマルコ福音書14章53節以下、ゲッセマネの園で捕えられたイエスが大祭司の屋敷で行われた_マタイは大祭司をカイアファと紹介しています(26:57)_最高法院による裁判を受けるという記事です。マルコはこの裁判を次のように導入します。「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためにイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていた」(55−56)。
「祭司長たちと最高法院の全員」は、神の律法の番人です。その人たちが〈偽証人〉を立てたというのです。わたしは中国の歴史ドラマが好きでよく見ます。宮廷を舞台に繰り広げられる勢力闘争で、謀反の証拠を捏造し、敵対勢力を排除するテーマがよく用いられます。最高法院によるイエスの裁判がまさにそれでした。イエスを「死刑にするために」偽証人を立てたのです。法の番人が、偽証人を立てたとは、自らの存在根拠を否定することです。「十戒」の第9戒に、「隣人に関して偽証してはならない」とあります。ここでいう「偽証」とは日常生活でつく嘘ではなく、裁判での証言のことです。ユダヤの法の最高権威が裁判で偽証人を立てたのです。それは十戒を破ることであり、死刑に相当する罪です。つまりこの法廷で死の宣告を受けるのはイエスではなく、偽証人を立てた最高法院なのです。
ちなみに、マルコが描く大祭司の屋敷でのイエスの裁判は、原告を最高法院、被告をイエスとする神の大法廷であると言った人がいます。その大法廷で、原告の最高法院は被告イエスを死刑にするために偽証人を立てたのです。そうすることで最高法院は自らの意図に反し、神の救いの計画の一端を担ったのです。そのことを象徴的に語った記事がヨハネ福音書にあります。ラザロを甦らせたイエスを人々が信じるようになったことに危機感を覚えた祭司長たちとファリサイ派の人々は、「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。(そうなれば)ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまう」(11:48)との懸念を口にします。すると、その年の大祭司カイアフェが、「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(49−50)と言ったのです。このカイアファの発言にヨハネは次のような注釈を付します。「これは、カイアフェが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のため、……散らされている神の子たちを一つにするために死ぬ、と言ったのである」(51−52)。
マルコが大祭司の屋敷で行われた最高法院の裁判で描いたのはまさにこれです。最高法院はイエスに死刑を宣告することで、イエスが「多くの人の身代金として自分の命を献げる」ことの証人になったのです。イエスは多くの人の罪を贖うために命を献げる! そのことをマルコはイエスの沈黙で描きます。偽証人の食い違う証言のあと、大祭司が立ち上がり、イエスに尋ねます。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」マルコは、「しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」と記します。マルコが描くイエスの沈黙は、「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口をひらかなった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わなかった!」(イザヤ53:7)。という私たちの罪、咎、過ちの全てを身に負い、神の裁きの座に進み出る主の僕を彷彿とさせます。
Ⅱ.キリストの体なる教会
イエスは「多くの人の身代金として自分の命を献げる!」これとの関連で注目したいのが57節以下です。何人かの偽証人が、「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせよう』と言うのを、わたしたちは聞きました」と証言したのです。しかしマルコはこの証言も、「食い違った」と記します。この食い違う証言に光を当て、自らの福音書の中核に据えたのがヨハネです。ヨハネはこの証言を宮清めの文脈で取り上げます。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は、宮清めの記事をイエスの公生涯の終わりに置いていますが、ヨハネは、水をぶどう酒に変える最初のしるしを行って栄光を表されたカナの婚礼に続けて、つまりイエスの公生涯の初めに置きます。
イエスはエルサレムに入城されると、縄で鞭を作り、神殿の境内で売り買いしている者たちを追い払われたのです。イエスの目には、「すべての民の祈りの家」である神殿が「商売の家」(ヨハネ2:16)、「強盗の巣」(マルコ11:17、並行)と写ったのです。ユダヤ人たちは神ではく、富に仕えている(マタイ6:24)と写ったのです。イエスの暴力的な行動を目撃したユダヤ人たちは、「こんなことをするからには、どんなしるしを見せるつもりか」と詰め寄ります。するとイエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(2:19)と言われたのです。確かにイエスは、「人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせよう」と言われたのです!
これを聞くとユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で立て直すのか」と反問します。この反問に答えたのは、イエスではなくヨハネです。ヨハネは、「イエスの言われた神殿とは、御自分の体のことである。イエスが死者の中から復活されたとき、イエスがこう言われたことを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(21−22)と付記したのです。
ヨハネは、イエスが言われた「三日で立て直す神殿」とは、キリストの体なる教会であると解釈したのです。そのことを思い巡らしていた時、ボンヘッファーが創世記2章7節、土の塵で造られた人間について語った言葉が思い起こされました。土の塵で造られた人間は、鼻に命の息を吹き込まれて生きる者になったのですが、ボンヘッファーはこれを起点として次のように語ります。「人間の肉体はまことに神の霊によって生きる。これが人間の本性である。神は……特別な存在の仕方をする人間の肉体において、神の栄光を現わす。それゆえ、被造物において神が創造したままの肉体が破壊されてしまった後に、神はイエス・キリストにおいて再び肉体の中に入って行った。そしてこのイエス・キリストという肉体がまた引き裂かれた時に、神は今度は聖礼典において「からだ」と「血」という〈かたち〉の中に入って行く。聖餐式のからだと血とは、堕落した人間アダムのために新しい約束をもたらし、新しい現実を創造する。」
このボンヘッファーの解釈によれば、ヨハネが描いたイエスの宮清めは、聖晩餐において最も確信をもって現われ出る教会が、〈神殿〉に取って変わるということです。「イエス・キリストという肉体が引き裂かれた時、神は今度は聖礼典において「からだ」と「血」という〈かたち〉の中に入って行く。聖餐式のからだと血とは、堕落した人間アダムのために新しい約束をもたらし、新しい現実を創造する。」マルコは聖餐式のからだと血という、堕落した人間アダムのために創造された新しい現実を、イエスの沈黙で描いたのです。イエスの沈黙に苛立つ大祭司は、立ち上がり、こう告発します。「『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。』しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。」この沈黙は、「だれでも、キリストにあるならば、新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った、見よ、全てが新しくなった」(コリント後5:17)という、イエス・キリストの十字架の死によって創造された新しい天と地の象徴なのです!
Ⅲ.人類の希望
マルコはこの後、十字架のキリストによって創造された新しい天と地を、イエスの沈黙が破られる瞬間で描きます。大祭司が、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と重ねて尋ねると、イエスは「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」と、初めて口を開かれたのです。パウロはイエスが口を開いて語られたことを、「テサロニケの信徒への手紙一」で次のように語ります。「主の言葉に基づいて次のように伝えます。……合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえ、神のラッパが張り響くと、主御自身が天から降って来られます。……」(4:15、16)。この主の再臨の典拠となったのが「ダニエル書」です。ダニエルは次のように語ります。「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのみもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」(7:13−14)。
ダニエルのこの言葉から分かるように、人の子が雲に乗って来るとは、終末における神の救いの完成です。興味深いのは、マタイとヨハネは、終末における神の救いの完成をキリストの十字架に見たことです。ヨハネは、イエスにこう語らせます。「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(12:31−32)。イエスが地上から上げられるとは、父のもとに帰る昇天のことではなく、十字架で死ぬことです(12:33)。そしてマタイは、イエスが十字架で死んだときに起こった天変地異を次のように描きます。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖徒たちの体が生き返った」(27:51−52)と。死者が甦るのは終わりの日の救いの完成です。それが、イエスが十字架で死んだ時に起こったと言うのです! ここには最初の日々の雰囲気がなお何がしか保たれているのです。初代のキリスト者たちはキリストの十字架に新しい天と地を見たのです!
それにしても御子イエス・キリストが十字架で死ぬことに神の救いの完成があるとは、なんという、隠された、神秘としての神の知恵か! ヨハネはそれを、宮清めと対をなす十二弟子への復活顕現物語で描きました。ユダヤ人を恐れ、部屋の戸に鍵をかけていた弟子たちの真ん中に、十字架の聖痕が生々しく刻まれたイエスが現れたのです。そしてイエスは、神が土の塵で造られた人間に命の息を吹き込まれたように、弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言って、弟子たちを世界宣教へと派遣されたのです(ヨハネ20:19−23)。ある研究者は、ヨハネがここに描いたイエスの復活(イースター)、栄光を受けた者として顕現(再臨(パルーシア))、そして聖霊の賜物の賦与(ペンテコステ)は、最初期の共同体においては、一つの事柄として経験されたのではないか、と解説しました。
それにしてもイースターとパルーシア、そしてペンテコステと聖金曜日が一つの事柄として経験されるとは、どうような経験なのか? それを読み解く鍵は、十字架のキリストを記念する聖餐式にあります。イエスは最後の晩餐で、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と、キリストの十字架を「記念」する主の晩餐を制定されました。聖餐式において私たちは、十字架のキリストを、いま、ここでのこととして体験するだけではなく、キリストの十字架が指向した、世の終わりにおける神の救いの完成を先取りして体験するのです。ボンヘッファーはそれを、「イエス・キリストという肉体が引き裂かれた時に、神は今度は聖礼典において「からだ」と「血」という〈かたち〉の中に入って行く。聖餐式のからだと血とは、堕落した人間アダムのために新しい約束をもたらし、新しい現実を創造する」と語ったのです。_だれでも、キリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてのものが新しくなった_のです。キリストにあって新しく造られた者は主の晩餐で、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見るのです。神は、私たちに「将来と希望を与える」(エレミヤ29:11−12)ために、御子イエス・キリストを十字架に上げられたのです!