2026/10/4 降臨節第20主日  「見棄てられた神」

マルコ福音書14:43-52、ロマ書11:28-29、エレミヤ2:1-13

讃美歌 Ⅱ184

さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。……ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。……弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。(マルコ14:43―50抜粋)

Ⅰ.霧に閉ざされた光景

きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言葉はマルコ福音書14章43節以下、ユダの裏切りによりイエスが祭司長、律法学者、長老たち、つまりユダヤの最高法院(55)が遣わされた群衆によって捕らえられる記事です。マルコが伝えるこの伝承は、まるで霧に閉ざされているかのようです。例えば47節、「居合わせた人々のうちある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした」がそれです。夜の闇の中で、大混乱となりかねない暴力的不測の事態が起こったのです。しかし、48節を見ると、イエスはこのことに全く触れていないのです。

この霧に閉ざされているかのような記事から、霧を払おうとしたのがマタイとルカです。マタイはイエスに、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」(26:52−53)と語らせ、またルカはイエスに、「やめなさい。もうそれでよい」と語らせた後、イエスは「その耳に触れて癒された」としたのです。しかしマルコは違うのです。「居合わせた人々のうちある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とす」という不測の事態が起こったのに、イエスはこのことにいっさい触れないのです。

イエスの逮捕を巡る記事でもう一つ、一風変わった記事があります。それは51節以下、素肌に亜麻布をまとってイエスの後についてきた若者が、人々に捕らえられそうになると、亜麻布を脱ぎ捨て裸で逃げたという記事です。マルコがこの記事で何を伝えようとしたのかは未だに解明されていません。マタイもルカもイエスの福音に必要ないと、この記事を省いています。

わたしは、これらの記事だけでなく、この記事全体が霧に閉ざされているかのようであると感じています。この霧に閉ざされたかのようなあからさまでない語り口に、奥義の存在が示されているのです。パウロの言葉を引用すれば、「人が口にするのを許されない、言い表し得ない言葉」(Ⅱコリント12:4)です。パウロはこの言葉を、「神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会した」(使徒22:17−18)という幻体験を通して聞きました。聖霊の照明を祈り求めつつ、私たちもこの礼拝で「主にお会いし」、「人が口にするのを許されない、言い表し得ない言葉」を聞きたいと思います。

マルコはこの記事を、「さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た」という言葉で導入します。「さて」とは「それからすぐ」という、マルコが特に好んで用いた表現です。マルコはこの語句で、イエスの逮捕をゲッセマネの祈りと結びつけたのです。この直前、イエスは「死ぬばかりに悲しい」と言って地面にひれ伏し、この杯をわたしから取り除けてくださいと祈ったのです。その間弟子たちは夢路を辿っていました。その弟子たちをイエスは揺り起こし、「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た!」と言われると、まさにその時、「十二人の一人であるユダが進み寄って来た」のです。ユダはヒタヒタと押し寄せる虚無の足音を立てながら、イエスに歩み寄ったのです。歩み寄って、「『先生』と言って接吻した」のです。親愛のしるしである接吻で、ユダはイエスを裏切ったのです。しかもマルコはユダを「十二人の一人」と明記することで、ユダの裏切りがいかに恐るべきものであるか、またイエスの運命がいかに過酷であるかを強調したのです。

Ⅱ.神からの逃亡

この導入と対をなしているのが50節、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」です。十二人の一人ユダがイエスを裏切っただけではありません。残る十二弟子も皆、イエスを見捨てて逃げ去ったのです! もちろん、ユダの裏切りと、弟子たちがイエスを見捨てて逃げ去ったことは、同列に論じられません。イエスはユダが裏切らなくても、罪人らの手に引き渡されるのです(14:21)。つまりイエスが罪人らの手に引き渡されるのは神のご計画なのです。弟子たちが皆、イエスを見捨てて逃げ去ったのも神のご計画なのです。マルコはそれを、過越の食事を終えてオリーブ山に向かう途上で描きます。
「あなたがたは皆、わたしにつまずく。
『わたしは羊飼いを打つ。
すると、羊は散ってしまう」
と書いてあるからだ」(14:26−27)。

弟子たちがイエスを見捨てて逃げ去るのは、神が羊飼いを打たれる結果である! ちなみに、ここで「(聖書に)書いてある」とは、ゼカリヤ書13:7のことです。そこには次のように語られています。「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ、……羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい」と。ゼカリヤが「羊飼いを撃て」と語る「羊飼い」は、「剣よ、……羊飼いに立ち向かえ」と語られていることから分かるように、偽預言者のことです(13:1−6)。それをイエスは、ご自分について語れた言葉として再解釈したのです。つまりイエスは、弟子たちが皆、イエスを見捨てて逃げ去るのは、神が羊飼いである〈わたし〉を打たれるからであるとしたのです。

それを象徴的に語ったのがイザヤ書53章、苦難の僕の歌です。
_わたしたちは羊の群れ、
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。_(6)。
然り、_彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった_(5)と。

神は道を誤り、迷い出た羊の罪をすべて僕に背負わせ、裁きの座に引き摺り出して打たれるのです! つまり、イエスが語られた、神が羊飼いを撃つのは、羊を散らすためではなく、道を誤り、迷う羊を集めるためなのです。それを象徴的に語ったのが、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(14:28)という約束です。道を誤り、迷う羊に命を与えるために!父なる神が子なる神を撃たれるのです。この父なる神が子なる神を撃つ裁きの座に立つことができる人間など一人もいないのです。マルコはそれを、十二弟子は皆、イエスを見捨てて逃げ去ったで表現したのです。

それにしても弟子たちがイエスを見捨てて逃げ去ることは神のご計画であるで、マルコはどのような奥義の存在を描いたのか? そのことを黙想していた時、新共同訳が「イスラエルの罪」と表題をつけたエレミヤ書2章1節以下に導かれました。それは次のように語り出されます。

_わたしは、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、
種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。(2)_

これは、奴隷の地エジプトから解放された民が、危機的な虚無の現実である荒れ野に囲まれながら、倦むことなき忍耐をもって約束の地カナンを目ざしたときのことです。

この若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順と形容されたイスラエルが、乳と蜜の流れる約束の地に入ると、「空しいもの(偶像)の後を追い、空しいものになってしまった」のです。イスラエルは愛の絆で養い育ててくれたヤハウェの手を払いのけ、バアルに膝をかがめたのです(ホセア11:2−4)。エレミヤは語ります。

_一体、どこの国が、神々を取り替えたことがあろうか。
しかも、神でないものと。_(2:10)。

このエレミヤの言葉を正しく聞くには、以下の考察を経なければなりません。使徒言行録に、パウロがギリシアのアテネで伝道した記事があります。そこは神々に満ちた世界であり、中には「『知られざる神に』と書かれた祭壇」さえあったのです(17:23)。この神々に満ちた世界では、エレミヤが語る、神を取り替えるということは起こらないのです。日本の宗教人口は、日本の人口よりも多いと言われます。日本人は複数の神仏に祈りをささげているのです。笑い話ですが、日本人は誕生の際には神社を訪れ、結婚式はキリスト教式で行い、そして葬儀は仏式で行うのです。エレミヤが語る、「一体、どこの国が、神々を取り替えたことがあろうか」とう深刻な事態は、八百万の神が共存する国では起こり得ないのです。それは、生ける神を信じる民において〈のみ〉起こることなのです。言い換えれば、「神々を取り替える」という深刻な事態は、イスラエルの神が〈生ける神〉だからなのです。

Ⅲ.棄てられた神

マルコが、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げた」で描いた奥義は、イエスは生ける、聖なる神である!ということなのです。この視点を真正面から取り上げたのがヨハネです。ヨハネはゲッセマネの園におけるイエスの逮捕で、イエスが〈生ける神〉であることを前面に押し出します。イエスが「だれを捜しているのか」と言われると、彼らは「ナザレのイエスだ」と答えます。イエスが「わたしである(エゴー・エイミー)」と言われるとは、彼らは聖なる神に圧倒されて後ずさりし、地面に倒れた(18:6)のです。

イエスは〈聖なる、生ける神〉である! マルコはこの奥義を、この後、十字架に上げられたイエスで描きます。イエスが十字架に上げられた昼の十二時から三時まで、闇が全地を覆う中、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という声が響き渡ったのです。十二弟子がイエスを見捨てただけではないのです。神が、イエスを見棄てたのです!

マルコは、神が羊飼いを打たれたとき、全地は暗闇に覆われたと証言しました。この暗闇で思い起こすのは、神がアブラハムと契約を結んだ記事です。神は跡取りのいないアブラハムに、星の数ほどの子孫を与えると約束し、それを信じたアブラハムを義と認め、契約を結ばれます。語り手はその契約を次のように導入します。「日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗闇が彼に望んだ」(創世記15:12)。イエスが十字架に上げられた時も、太陽が光を失うという「恐ろしい大いなる暗闇」が臨んだのです。

イエスが十字架に上げられた時も、「恐ろしい大いなる暗闇」が臨んだのです。神は十字架のキリストにおいて「新しい契約」が結ばれるのです。それを象徴するのが、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という壮絶なイエスの叫び声です。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」このイエスの叫び声に私たちは何を聞くのか? それは、「犠牲とせられ給いし人の『深き淵より』の声……、『神は愛なり!』」(キルケゴール)ではないか! 「犠牲とせられ給いし人の『深き淵より』の声「神の痛みの愛」により、生ける神を空しいものに取り替えた人間の罪、咎、過ちは赦されるのです。パウロはそれを、「万民とイスラエルの救い」を語るロマ書9−11章で次のように語ります。「では、尋ねよう、ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない」(11:11)。「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです!」(11:28−29)。

一度発せられた神の言葉は、取り消すことができない! 預言者はそれを次のように語りました。
「雨も雪も、ひとたび天から降れば、
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしく、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ、
わたしが与える使命を必ず果たす」(イザヤ55:10−11)。

初めにあった言、神と共にあった言、神であった言、イエス・キリストは肉となり、十字架に上げられて死んだのです。生ける神が十字架で死んだのです! イエスは十字架で死ぬことで、父である神の望むこと、すなわち、神を空しいものに取り替えた、救うに値しないものを救う愛が完成されたのです。私たちは主の晩餐で、十字架のキリストがいま、ここで現在する主の晩餐で「犠牲とせられ給いし人の『深き淵より』の声、『神は愛なり!』を聞くのです。私たちは、主の晩餐で「恐ろしく大いなる暗闇」に包まれ、主にお会いするのです!

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