2026/9/27  聖霊降臨節第19主日  「地にひれ伏す神」

マルコ福音書14:26-42、ヘブライ5:7-10、エレミヤ書30:21-22
讃美歌 506

イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、……こう言われた。「アッバ、父よ、……この杯をわたしから取りのけてください。……」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた……」(マルコ14:33−37)

 

Ⅰ. ゲッセマネのイエス

きょう、わたしたちに開かれた〈生ける神の言葉〉はマルコ福音書14章26節以下です。ここには過越の食事を終えたイエスと弟子たちがオリーブ山へ向かう途上で交わした弟子たちの躓きを巡る対話と、ゲッセマネの園におけるイエスの壮絶な苦しみが描かれています。パスカルはゲッセマネのイエスの苦しみを『パンセ』で次のように描いています。_イエスはその受難においては、人々(「祭司長たちや律法学者たち」)が彼に与える苦しみを忍び給う。だがその最後の苦悶においては、われとわが身に与える苦しみを忍び給う。それは人間の手からくる苦痛ではなく、全能の御手から来る苦痛である。_こう言ってパスカルはさらに言葉を続けます。_イエスは少なくとも三人の最も親しい友たちのうちに、いくらかの慰めを求め給う。しかし彼らは眠っている。……彼らは受難を共にする気持ちを持たないので、一瞬間も眠りに打ち勝つことができなかった。かくしてイエスは見棄てられ、ただひとり神の怒りに対し給う。_

イエスがただひとり、「全能の御手から来る苦痛」を耐え忍んでおられるとき、弟子たちは夢路を辿っていたという、この対照的な光景はどのような秘義を伝えているのか? パスカルは夢路を辿る弟子たちを「受難を共にする気持ちを持たない」という表現したのですが、この表現は弟子たちを描く言葉としては正確でないように思います。イエスの苦しみを共感できる人間など、ひとりもいないからです。人間が経験する苦しみであるならば、例えばヤコブが、愛する息子ヨセフが獣に噛み殺されたと聞いて、慰められることを拒み、「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ降って行こう」(創世記37:35)と語った時、私たちはヤコブの苦しみに共感できます。しかし、地にひれ伏し、「わたしは死ぬばかりに悲しい」(34)というイエスの苦しみに共感できる者など、ひとりもいないのです。父なる神が子なる神を打たれたのです(14:23)。「全能の御手から来る苦痛」を耐え忍ぶことができるのはイエスだけなのです。

パスカルはそれを次のように描きます。_イエスはただ独り地上にいたもう。彼の苦痛を感じ、……それを知るのは天と彼とのみである。……_こう言ってさらに言葉を続けます。_思うに、イエスが嘆き給うたのは、このとき一度だけでしかない。だが、このときには、あまりの苦しみにもはや耐えきれなかったかのように、彼は嘆き給う。「わが心いたく憂いて死ぬばかりない(わたしは死ぬばかりに悲しい)。」_

パルカルは、「イエスが嘆き給うたのは、このとき一度だけでしかない」と語りますが、「ヘブライ人への手紙」の著者は、イエスの全生涯がこの嘆きの中にあったと語ります。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげた」(5:7)と。

この「ヘブライ人への手紙」の言葉に呼応するのが、ヴェスターマンが『千年と一日』の序文に記した言葉です。ヴェスターマンは_この文書は、すなわち旧約聖書は千年にもわたっている。それは、新約聖書において達せられた目的に至る長い旅であった。新約聖書に書かれていることは、ある一日の出来事に凝縮できる。その日とは、人の子が上げられた日である。_と語りました。ヴェスターマンは、旧約聖書は人の子が十字架に上げられた一日に凝縮できると言うのです。言い換えれば、旧約聖書は〈神の痛みの書〉である、ということです! 旧約聖書全巻を神の痛みが貫いているのはそのためです。その神の痛みが目に見える形をとったのが十字架のキリストなのです。聖霊の照明を祈り求めつつ、ゲッセマネの園で顕にされたイエスの苦しみを味わいたいと思います。

Ⅱ.神の痛みの愛

十字架の死を前にしてイエスは、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言って地面にひれ伏したのです! このイエスの姿は一見すると、私たちが親しんでいるイエスの姿と違います。例えば私たちは、ルカが描く、迷い出た一匹の羊を探す羊飼いイエスに深い慰めを覚えます(15:4−7)。ヨハネはそのイエスを、「良い羊飼いである」と言い、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:11)と語りました。そしてマタイは次のようなイエスの言葉を伝えています。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(11:28−30)。

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われたイエスが今、ゲッセマネの園で、「この杯(重荷)を取り除けてください」と祈るのです! ルカが、ヨハネが、そしてマタイが描いた慰めに満ちたイエスを読み解く鍵は、ゲッセマネのイエスにあるのではないか。そのことを思い巡らしていたとき、キルケゴールの言葉が思い浮かびました。

「枝の鳥、野の百合花、森の鹿、海の魚、そして無数の楽しげなる人間が(ソプラノで)『神は愛なり!』と歌っている。然しこれらのソプラノの下に恰も潜められたバスの如く、犠牲とせられ給いし人の『深き淵より』の声が響く、曰く、『神は愛なり!』」
イエスがゲッセマネの園で、バスの響きで歌う「神の愛」は、犠牲とせられ給いし人の『深き淵より』の声、神の〈痛み〉の愛なのです。迷い出た羊を探すイエスも、羊のために命を捨てる良い羊飼いイエスも、そして重荷を負うて苦労している人に提供される休み(平安)も、犠牲とせられ給いし御子が「深き淵より」叫ぶ「神の痛みの愛」の結実なのです!

ヴェスターマンは、旧約聖書はこの神の痛みの愛に貫かれていると語りました。その一つに詩篇12篇があります。詩人は歌います。
_主のことばは清き言葉である。
地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。(6)
神の言葉は、天の炉で練り清めた方が比較を絶して清いのではないか。しかし詩人は、天の炉でとは言わず、地の炉でと語るのです。「地の炉」とは何か? 人間の苦悩のすべてです!

神の言葉は人間の苦しみによって練り清められた言葉であるがゆえに、苦しみの中にある人を慰め、救うことができるのです。だからヘブライ人への手紙の著者は、地の炉で練り清められたイエスを、すなわち、「肉において生きておられるとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、……祈りと願いをささげた」イエス・キリストを「永遠の救いの源」(5:10)と証言したのです。

神の痛みの愛に貫かれる旧約聖書にあって一際目を引くのは、「最も深く神の心を見た」(キッテル)と言われるエレミヤです。エレミヤは神の痛みの愛を次のように語ります。
「エフライムはわたしのかけがえのない息子……
彼を退けるたびに、……胸は高鳴り、
わたしは彼を憐れまずにはいらない(わが腑は痛む)」と。

北森嘉蔵はこのエレミヤの言葉を導きの糸として、敗戦後の混乱の中、昭和21年『神の痛みの神学』を出版しました。北森先生は『神の痛みの神学』を生み出した時代背景を次のように語ります。「……我々の生きている今日は、最も優勢なる意味において『死の時代』であり『痛みの時代』である。私の眼には、今日世界は大空の下に横たわっているのではなく、痛みの下に横たわっているものとして映ずる」と。あの頃が「死の時代」であったように、私たちが今、現に生きている時代も深い意味で「死の時代」であるというのが多くの人々の実感です。死の時代を生きる者にとって、「犠牲とせられ給いし人の『深き淵より』の声……、『神は愛なり!』」は「永遠の救いの源」なのです。

Ⅲ.神の心を見る

「最も深く神の心を見た」エレミヤの言葉に、神の痛みの愛、つまり十字架のキリストを暗示するような言葉があります。30章21−22節です。

「ひとりの指導者が彼らの間から、
治めるものが彼らの中からである。
わたしが彼を近づけるので
彼はわたしのもとに来る。
彼のほか、誰が命をかけてわたしに近づくであろうか、
主は言われる。」

この言葉は、神への不従順ゆえに滅ぼされた北王国イスラエルの回復について語られたものです(30:18−20)。ひとりの指導者、治める者とは、受膏者(油注がれた者、メシア)の意です。ここでは受膏者に付与される多くの機能と権能のうち、ただ一つの事が述べられています。神が彼を「近づけさせる」ので、「彼は命をかけて神に近づく」ことです。「神に近づく」とは、祭儀に関わる専門的用語です。しかしここでは受膏者の聖性ではなく、その機能に重点が置かれています。エレミヤは「神に近づく」を祭儀に関わる用語としてではなく、宮廷的な特権を示す用語として用いているのです。それによれば受膏者は、神ヤハウェの地上における代理者です。つまりエレミヤは、受膏者は神と直接の交わりを持つと考えたのです。

神はご自分との交わりのために受膏者を「近づかせる」のです。受膏者は命を担保にして神に近づくのです! そうして受膏者は世界の王の秘密にみちた審議にあずかるのです。審議の内容は、神に不従順ゆえに滅ぼされた北王国イスラエルの回復です。神は、神に不従順なものを救うために、ひとりの指導者、治める者、すなわち受膏者をご自分に近づけさせるのです。そして受膏者は、命を賭して神に近づくのです。神への接近は「自分の命をかける」受膏者のみに許されることなのです。フォン・ラートは、この神への接近の比類のなさにエレミヤの特殊性があると語ります。_「自分の心を担保に入れて、わたしに近づく者は誰か。」これはおそらくかつて古代イスラエルにおいて提出された最も難しい問いのひとつであり、このような問いを提示しうるようになるまでに、神についてまた人間についていかなる知識が要求されたことか!_と。

「自分の心を担保に入れて、わたしに近づく者は誰か。」十字架のキリストに凝縮される旧約千年の歴史は、この問いのためにある! フォン・ラートのこの言葉を黙想しているとき、捕囚期末期の預言者第二イザヤが語る種の僕の歌が思い浮かびました。それは次のように語り出します。

_わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。……
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。_(53:1、4)。

この預言者の言葉はゲッセマネの園のイエスを彷彿とさせます。_イエスは……その最後の苦悶においては、われとわが身に与える苦しみを忍び給う。それは人間の手からくる苦痛ではなく、全能の御手から来る苦痛である。_預言者は「全能の御手から来る苦痛」を次のように描きます。

_彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。_(53:5)。

主の僕、子なる神は、わたしたちの罪、咎,汚れの全てを身に負うて、裁き主、父なる神のみ前に命を賭して近づき、打ち砕かれ、その受けた傷によって「永遠の生命の源」になったのです! 結びに、キルケゴールの祈りを聞いて終わりたいと思います。 _主よ! 無益なる事物に対しては我々の眼を霞ましめ、 汝の凡ゆる真理に関しては我々の眼を隅なく澄ましめ給へ。_

この澄んだ眼、感覚は飽くまでも神から与えられるものであり、決して私たちがもつ眼や感覚ではありません。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」然り、だれでも聖霊によるならば、「最も深く神の心を見る」のです! この「澄んだ眼」で、主の晩餐で目の前に描き出された十字架のキリストを見たいと思います。

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