讃美歌 138
ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。(マルコ14:71−72)
Ⅰ.イエスを知らないと言うペトロ
きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言葉はマルコ福音書14章66節以下、イエスがユダヤの最高法院で死刑を宣告され、唾を吐きかけられ、目隠しされて殴られ、平手で打たれていたとき、十二弟子の筆頭ペトロが三度イエスとの関係を否定したという、しかも呪いの言葉さえ口にして誓ったという記事です。因みに三度否定したとは、イエスとの関係を完全否定した!ということです。
マルコが、イエスを「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」(ルカ1:1)の証言を集めて「福音書」を記したのは、紀元66年に勃発したユダヤ戦争の前であるというのが一般的です。つまり、マルコが福音書を書いた時、ペトロはまだ生きていた可能性があるのです。たとえ死んでいたとしても、なぜ、マルコは、そして他の福音書記者たちは、教会の柱として重んじられていたペトロの名誉を傷つける記事を伝えたのか? 後ほど詳しく触れますが、わたしはこの記事に、聖書宗教、つまり神の言葉によって生きる宗教の真髄があると考えています。
ペトロは新約聖書の中でその人物像が描かれている稀有な存在です。ペトロとは、いったい、どのような人物なのか? イエスはヨハネから洗礼を受けると、荒れ野でサタンの試みを受け、郷里ガリラヤで神の国の宣教を開始されました。そこで最初に手がけたのは、ガリラヤの漁師ペトロを兄弟アンデレと共に、またヤコブとヨハネを「人間をとる漁師」(1:17)として召されることでした。つまりイエスは神の国の宣教者、十字架と復活の証人として、エルサレムで神学訓練を受けた人々でなく、異邦人のガリラヤと呼ばれる地で生きていた漁師を召されたのです。
イエスが権威ある言葉と力ある業で神の国を宣べ伝えると、人々が四方から押し寄せます(1:45)。その人々の中からイエスは、「これと思う人々」を呼び寄せ、十二を任命し、使徒と名づけ、ご自分の側に置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせたのです(3:15以下)。その十二使徒の中でペトロは、ヤコブとヨハネと共に特別の位置にいました。例えば会堂司ヤイロの娘を生き返らせるときとか(5:35f)、また、イエスが高い山に登り、比較を絶した白さに輝かれた時とか(9:2f)、そして、ゲッセマネの園でイエスがひどく恐れてもだえ始め、地面にひれ伏して祈ったとき(14:32f)、ペトロはヤコブとヨハネと共にイエスの側近くにいることを求められたのです。そのペトロが、イエスとの関係を全否定したのです。
実は数時間前イエスは、ペトロがご自分との関係を全否定すると語っていました。過越の食事を終えて、オリーブ山に向かう途上、イエスは預言者ゼカリヤの言葉、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」を引用し、弟子たちが皆、躓くと言われたのです。するとペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、わたしは躓きません」と言ったのです。そのペトロにイエスが、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度知らないと言うだろう」と言われると、ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったのです(14:27f)。そのペトロが、舌の根も乾かぬうちに、イエスとの関係を全否定したのです。
ペトロがイエスとの関係を全否定したことがいかに深刻であるかは、マタイが伝える、ペトロに「天の国の鍵」が授けられたことから明らかです。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と。そのペトロがイエスとの関係を全否定したとは、ペトロの上にわたしの教会を建てると言われたイエスの前言は取り消されるのでしょう? わたしは、キリストの教会はイエスとの関係を全否定したペトロの上に建つ!と考えています。聖霊の照明を祈り求めつつ、ペトロの上に建つ教会に隠された、神秘としての神の知恵を知りたいと思います。
Ⅱ.ペトロのために祈るイエス
先ほどわたしは、マルコが福音書を書いた時、ペトロはまた生きていたのではないか、たとえ死んでいたとしても、教会の柱として重んじられたペトロの名誉を著しく傷つけるような記事をなぜ伝えたのか、との疑問を呈しました。実は、ペトロが存命中、厳しい言葉でペトロを叱責した人がいます。パウロです。パウロは「ガラテヤの信徒への手紙」の中でその経緯を次のように伝えています。異邦人伝道の拠点であったアンティオキアにペトロが来たとき、非難すべきことがあったので、面と向かって反対したと。どういうことかと言えば、当初ペトロは異邦人と一緒に食事をしていたのですが、エルサレム教会の中心人物ヤコブのもとからある人々が来ると、割礼を受けている者たちを恐れて、異邦人との交わりから身を引いたのです。それを見てパウロは、「福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていない」とペトロを非難したのです(ガラテヤ2:11−14)。
パウロが福音の真理から外れたペトロを非難したのは、ガラテヤの信徒たちもペトロ同様、「福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていない」ことを指摘するためでした。ガラテヤの信徒たちは、目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたのに(3:1)、他の福音に乗り換えようとしていたのです。現代の教会も、ペトロやガラテヤの信徒たちと同じ誘惑にさらされていると語ったのは、心理学者ウィリアム・ジェイムズです。「神を信じないさまざまな教会が、今日、倫理会という名称で世界に普及しつつある」との言葉が心に迫ります。
イエスは言われます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17)と。そうであるのに教会は「倫理会」と化しているとジェイムズはいうのです。ここに要求されている人間観は、罪ある肉体をもつ人間こそ永遠に継続する受肉の容器として最も適した存在であって、世界から超絶した罪なき者が受肉の容器なのではない、ということです。
同情的イエスをカルバリーのキリストに取って代えるという誘惑はイエスが生きていた時からありました。その最たるものが、イエスが人の子の受難と死と復活をあからさまに語られると「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(マタイ16:22)と言ったペトロです。これを聞くとイエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている!」と、激烈な言葉でペトロを叱責されたのです。イエスの言葉の激しさから、事柄が琴線に触れたことが分かります。同情的イエスをカルバリーのキリストに取って代えるとは、キリスト教を消滅させる置換なのです。
この言葉が語られる直前イエスは、ペトロの上にわたしの教会を建てると言われたのです。「サタン、引き下がれ」によってイエスのこの約束は取り消されるのか。けっして取り消されないことを、慰めに満ちた物語に仕上げたのがルカです。ルカは、マルコが伝えるオリーブ山に向かう途上、ペトロが離反する記事を伝えていません。その代わりルカは、ペトロの離反を最後の晩餐の結びでとりあげます。イエスはペトロに対して、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われます。するとペトロは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言ったのです。死んでもよいとは、覚悟を表明する最上の言葉です。ところがイエスは、命をかけるというペトロに、「言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないというだろう」(22:31−34)と言われたのです。
ルカが描く、イエスとの関係を全否定するペトロに対するイエスの眼差しは限りなく慰めに満ちています。「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と。このイエスの言葉は、ご自分との関係を全否定するペトロの上にわたしの教会を建てる!の言い換えではないか。
Ⅲ.ペトロの上に建つ教会
イエスとの関係を全否定するペトロの上にキリストの教会は建つ! そのことを黙想していた時、モーセに対する二つの評価に導かれました。モーセは、奴隷の地エジプトからイスラエルを導き出し、荒れ野を導いたのです。また、金の子牛をヤハウェに取って変えるという、あってはならない罪を犯したイスラエルの破れ口に立ち、命を賭して執り成したのです(出エジプト32:31−32)。民数記も申命記も、そのモーセが約束の地に入ることはできないとしたのです。その理由は、民数記と申命記では真逆です。民数記はモーセが侵した罪、具体的には、神はモーセに、岩に「命じて」水を出せ、と言われたのに、モーセは神の言葉に聞き従わず、かつて岩を打って水を出した(出エジプト17:1f)経験に基づいて水を出したのです。結果、モーセは約束の地に入れないとの神の裁定が下るのです(民数記20:11−12)。
申命記も、モーセは約束の地に入れないと語りますが、その理由は民数記が語るモーセの罪ではなく、イスラエルの罪ゆえです。モーセは神にこう祈ります。_「どうか、わたしにも渡って行かせ、(乳と蜜の流れるよい土地を)見させてください。」しかし主は、あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。(3:23―26)_申命記が描く理由は、イザヤ書53章の苦難の僕を彷彿とさせます。
「わたしはペトロの上にわたしの教会を建てる」と言われたイエスの言葉と、そのペトロに、「サタン、引き下がれ」と言われイエスの言葉を黙想していた時、民数記の記者と申命記の記者が語った、約束の地に入ることができないモーセに対する神の裁定が思い起こされました。キリストの教会はイエスとの関係を全否定したペトロの上に建つ! それを端的に描いたのが72節、「するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した」です。イエスの言葉を思い出して泣くペトロの姿は、肉体の棘のようにロマ書7章24節と共に私の心に深く刺さった聖句の一つです。
私はイエスの言葉を思い出して泣くペトロに、聖書宗教の真髄があると考えています。二千ページにおよぶ「(新共同訳)聖書」の中に、神の言葉を聞いて泣いた、と語る箇所がもう一つあります。ネヘミヤ記8章、律法の書記官エズラがイスラエルの会衆にモーセの律法を朗読する件です。それはまことに厳粛な、そして感動的な場面です。一段高い所に立ったエズラが律法の書を開くと、民は皆、立ち上がり、エズラが大いなる神、主をたたえると、民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した(8:5−6)のです。
ネヘミヤ記の著者はこの礼拝の様子を次のように描きます。「総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。』民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた」(9)と。民は皆、律法の言葉を聞いて泣いた! 神の言葉を聞いて、自分の罪に泣く、それこそ聖書宗教の真髄ですトマス・ア・ケンピスが『キリストに倣いて』の冒頭に記した言葉、「わたしは罪の悔い改めの定義を知るよりも、むしろそれを実感したい」が心に迫ります。
バビロン捕囚後、イスラエルの民は国家としてではなく、ヤハウェを神とする宗教共同体として再生します。ネヘミヤ記8章は、ヤハウェを神とする宗教共同体の本質を語たるのです。ヤハウェを神とする宗教共同体の本質とは何か。それは神の言葉を聞いて、己が罪に泣くことです。ネヘミヤ記の著者は、神の言葉を聞いて罪に泣く民にこう語りかけます。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。→まるで主の晩餐!……今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(9b−10)。
「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である!」マルコが、イエスの言葉を思い出し、いきなり泣いたペトロで描いたのは、主を喜び祝う力の源ではないのか。主を喜び祝う力の源、それが主の晩餐です! 私たちは、十字架のキリストを目の前に描き出す主の晩餐で、鶏の鳴く声を聞きながら、己が罪に泣き、主を見て喜び、食べ、そして飲むのです!