2026/2/15 降誕節第8主日  「死と隣り合う生」

マルコ4:35-41、Ⅱコリント4:6-10、創世記1:1-3
讃美歌 519

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。……激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。(4:35−37)

 

Ⅰ. 強風吹き荒ぶ世界

きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言はマルコ福音書4章35節以下、イエスが荒れ狂う湖を静めたという奇跡物語です。説教の準備のためにこの箇所を黙想していたとき、最初に目にとまったのは、「その日の夕方になって」という一文でした。この一文が目にとまったのは、ユダヤでは、一日は「夕方」から始まるからです(創世記1:5)。マルコはこの一文で、イエス・キリストによる「新しい一日」、つまり新しい天と新しい地が始まることを表現したのではないか、との思いに捉えられました。この解釈が決して「度外れた解釈」ではないことは、嵐を静めたイエスに対する弟子たちの反応、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」という言葉に暗示されているように思います。弟子たちは、イエスが風を叱ると、風も湖も従うという未だかつて誰も経験したことのないことを経験したのです。_そしてそれは、私たちが七日目毎の主の日の礼拝で経験していることです。
次に心を捉えたのは、荒れ狂う湖に翻弄され、死の恐怖を訴える弟子たちに対するイエスの厳しい評価です。イエスは死を前にして怯える弟子たちを励まし、慰めるどころか「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と叱責されたのです。なぜイエスは死を前にした弟子たちにこれほど厳しい言葉を投げかけたのか。それを読み解く鍵は、直前に語られた「神の国の譬え」にあります。マルコは嵐の湖を静める奇跡物語を神の国の譬えの結びとして置いたのです。いったいイエスは、「種を蒔く人」の譬え、ともし火と秤の譬え、「成長する種」の譬え、そして「からし種」の譬えで何を語られたのか? それは、神の国(王的支配)はキリストの十字架にあるということです。キリストの十字架が神の国であると、いったい誰が想像しえたでしょうか。ルカは、エマオ途上の二人の弟子への復活顕現物語で、イエスが十字架で殺されたことで希望は失せたと語らせました(ルカ24:21)。しかし、〈死と隣り合う生〉を生きる者にとって、十字架こそ神の国なのです。マタイはそれを、イエスが十字架で死んだ時、墓が開いて、眠りについていた聖徒たちの体が生き返ったと語り(27:52)、またヨハネは、イエスが十字架に上げられる時、この世が裁かれ、この世の支配者が追放されると語りました(12:31)。十字架のキリストこそ神の国なのです!

そうであるのに、このとき弟子たちを支配していたのは、嵐を静める力あるイエスに対する賛美ではなく、板子一枚下に横たわる無の深淵・死に対する恐れだったのです。この弟子たちの姿は、そのまま私たちの姿ではないでしょうか? 20世紀を代表する知識人の一人マルティン・ハイデッガーは、「日常性」の分析を試み、そこに言い様のない憂愁を掘り当てました。人々はなぜ日常の世界に埋没しているのか。なぜおしゃべりをし、生活のあれこれを配慮し、そして日々の習慣の軌道を安易にすべってゆくのか。それは日常性という板子一枚下に、恐ろしい「無」、死が隠れているからだ。この「無」から目を逸らすために、人々は優しく手を差し伸べる「日常の世界」を作り出し、そこで安らかに眠る、と。きょう、私たちに開かれた御言葉は、この優しく手を差し伸べる「日常の世界」が崩れ去った様を描いています。弟子たちは強風吹き荒ぶ嵐の海で、板子一枚下に横たわる無の深淵(死)を垣間見たのです。その時無の深淵から目を逸らために造られた「日常の世界」が崩れ去ったのです。

Ⅱ. 闇から出る光

実は、生ける神の言葉・聖書は、この人間存在を脅かす無の深淵を見つめることから書き出します。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の上を動いていた」(創世記1:1―2)と。聖書の中には「解釈者の十字架」といわれる難解な箇所が少なくありません。創世記1章1−3節はその最初のものです。初めに神が天地を造られたとき、地は混沌であり、闇が深淵を覆っていたことから「無からの創造とカオス」という神学議論がなされるのです。パウロはロマ書4章でアブラハムの信仰に言及し、「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」(4:17)と語ります。これは信仰義認で語られたもので、「無からの創造」とは異なる視点です。私たちが注目したいのは「無からの創造」という神学議論の是非ではなく、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の上を動いていた」という翻訳についてです。この訳は、地は混沌であり、闇が深淵の面にあるにもかかわらず、神の霊は親鳥が雛を抱くように覆うという、愛と憐れみを見る解釈です。

実は、この慰めに満ちた訳の他に、もう一つ有力な訳があります。ヒブル語で「神」は最上級を表わし、「霊」は「風」とも訳せることから、「強風が水面を吹き荒れていた」とも訳せるのです。因みに、この訳を採用したのは米国ユダヤ教会が1962年に出版した『新訳モーセ五書』です。1962年、この年キューバ危機が勃発、東西冷戦の緊張は頂点に達したのです。その時代に、米国ユダヤ教会は、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、強風が水面を吹き荒れていた」と訳したのです。ちなみに、この言葉を記した祭司記者が生きていたのも、国家が滅亡するというバビロン捕囚の時代でした。それはまさに、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、強風が水面を吹き荒れていた」時代だったのです。

そしてそれは、今、私たちが生きている時代の様相です。私たちも、強風が間断なく吹き荒れ、闇が深淵を覆う時代を生きているのです。昭和21年、敗戦後の混乱の中、北森嘉蔵先生は『神の痛みの神学』に、「私の眼には、今日世界は大空の下に横たわっているのではなく、痛みの下に横たわっているものとして映ずる」と記しました。あの時代が痛みの時代であったように、私たちが今、生きている時代も最も優勢なる意味において「死の時代」であり「痛みの時代」なのです。イエスはこの嵐の湖で無の深淵を覗き込み、恐れ慄く弟子たちに、そして弟子たちの舟と一緒に湖に乗り出した他の舟の人々(36b)に、手を伸べられたのです。マルコだけが、弟子たち以外にも嵐の海で死の脅威に晒されていた人々がいたとしています。ちなみに十字架を背負ってわたしに従いなさい、と語りかけられた者に「群衆」もいた明記しているのもマルコだけです。イエスが風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」と言われると、風はやみ、すっかり凪になったのです。このイエスの力ある業を目撃して、「いったい、風や湖さえも従うとは、この方はどなたなのだろう」と言ったのは、他の多くの奇跡で驚きを現した人々ではなく(2:12)、弟子たちでした。

ところで共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)には、嵐の湖を静める奇跡の他に、自然を題材とした奇跡が五つあります。海上歩行(6:45以下)、いちじくの木を呪う(11:12以下)、神殿税を魚の口の中の銀貨(マタイ17:27)、ペトロの大漁(ルカ5:1以下)、そして五つのパンと二匹の魚で五千人を養う奇跡(6:30以下)です。この他に水をぶどう酒に変える奇跡がヨハネ福音書(2:1以下)にあります。イエスの力ある業は悪霊追放や病気治しだけではなく、自然にも及ぶとするこの記事との関連で注目したいのは、救済史と並んで、自然における神の力ある行為への賛美です。それは創世記1章の天地創造の物語のように、周辺諸国に伝わる神話を神学的に熟考、非神話化した祭司資料とは異なり、混沌・龍・闘争という周辺諸国に流布していた神話的表象をためらわずに利用しています。

例えば詩編104編は、「あなたが叱咤されると(深淵は)散って行き」(7)と謳います。また74編は、「あなたは、御力をもって海を分け、大水の上で竜の頭を砕かれた」(13)と謳います。また33編は、「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた」と、創造者の言葉の威力を称えます(33:6、9)。より古い賛歌と目される詩編29編は、「主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく」と、神の言葉を雷にたとえるのです。その神の力を「神殿のものみなは、『栄光あれ』と」賛美するのです。つまり、詩編29編は、礼拝に集う人々を、地上の大混乱から天の聖所へと導くのです。さらに詩編104編は、神が地を見ると、地は振い、山に触れると、煙をいだす(32)と謳います。

Ⅲ. 死と隣り合う生

この自然における神の偉大な業に関する極端な表現が第二イザヤにあります。「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである」(45:7)。聖書の神は光と平和だけではなく、闇と災いをも「創った」のです。これとの関連で思い起こすのは、東の国一番の富豪ヨブが一夜にして全財産を失い、十人の子供たちを失うという壮絶な苦しみの中で語った言葉、「主は与え、主は取りたもう。主の御名はほむべきかな」(1:20)です。ヨブは最も耐えがたい悲惨の中で、その闇を創造した神を賛美したのです。「主は与え、主は取りたもう。主の御名はほむべきかな」と。

これはイエスを信じる者すべてに共通する経験であると語ったのはパウロです。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。いつもイエスの死を身にまとっている」からである(Ⅱコリント4:8−10a)。「いつもイエスの死を身にまとって」いる者、最も耐えがたい悲惨を、最も深く最も永続的な幸福として生きるのです。

この人智を超えた至福、自然における神の力ある業を賛美する詩編の中に、エジプトからの救出と一つに結び合わせたものがあります。荒れ野の行進を主題とした詩編68編です。それは、「神よ、あなたが民を導き出し(出エジプト)、荒れ果てた地を行進されたとき(荒れ野の行進)、……地は震え、天は雨を滴らせ……ツァルモン山に雪が降る(自然の変貌)」(8−9、15)と歌うのです。

イザヤはこの荒れ野の行進を歓喜に溢れた言葉で語りました。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる」と(イザヤ35:1−2)。

この自然が変貌する荒れ野の行進は、エジプトを脱出したイスラエルの民が、紅海を旅立ち、旅路を重ねてシナイの荒野にむかって行進したという古伝承に根差した物語です。シュルの荒野には水がなく、シンの荒野では飢えた民衆が「われわれをこの荒野に導き出して、餓死させようとするのか」とつめよったのです(出エジプト16:3)。

神の山シナイの荒れ野を出発し、パランの荒野をさまよい、チンの荒野に入ったとき、イスラエルの民はまたもや不平を口にする。「なぜ、われわれと家畜とを、この荒野に導いて、死なせようとするのか。ここには種をまくところもなく、いちじくもなく、ぶどうもなく、ざくろもなく、また飲む水もない」と(民20:4)。それでも民の行列は果てしなく続き、歳月だけが容赦なく流れます。そして、セレデの谷をこえ(民21:12)、エリコに近いモアブの荒野に着いたときには、すでに四十年が過ぎていました(民22:26)。伝承によると、この旅の行く手には、「乳と蜜の流れる」約束の地があるのです。

詩編68編が歌うこの荒れ野の旅は、神を信じて過酷な歴史を生きたイスラエルそのものです。神の民イスラエルは「乳と蜜の流れる」約束の地を目指して倦むことなき忍耐をもって旅を続けたのです。言い換えますと、神の民イスラエルは、いかなる約束も無にすることなく、神の約束を測りしれないものへと成長させ、約束を未成就のままで来たるべき世代に伝え、神の負債として加算したのです。そして神は、この恐るべきものへと成長した期待に応えて、時満ちて、御子イエス・キリストを世に遣わし、御子は十字架の死によって「人類最後の敵」死を滅ぼされたのです。私たちが嵐の湖を静めるイエスに見るのは、「人類最後の敵」である死に対する勝利以外の何ものでもありません!

「主はこの山で、すべての民の顔を覆っていた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる」(イザヤ25:7−8a)とのイザヤの預言が、イエスが十字架に上げられることで成就したのです。嵐に翻弄され、板子一枚下に横たわる無の深淵、死に怯える弟子たちに、つまり〈死と隣り合う生〉を生きる者たちにイエスは、十字架に釘打たれた手を差し出されたのです。私たちはそのキリストの手を、主の晩餐で握りしめ、「主よ! あなたは、勝ち給うた!」と喜び躍るのです。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました!」だから、詩編27編の詩人とともに神を賛美しよう。
主はわたしの光、わたしの救い、
わたしは誰を恐れよう。
主はわたしの命の砦、
わたしは誰の前におののくことがあろう。……
ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り、
主を仰ぎ望んで喜びを得、
その宮で朝を迎えることを。(27:1,4)。
十字架のキリストという闇から輝き出る光によってわたしたちは、最も耐えがたい悲惨に、最も深く最も永続的な幸福を味わうのです。

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