讃美歌 527
ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。(マルコ10:46−47)
Ⅰ.十字架の言葉の神学者
きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言葉はマルコ福音書10章46節以下です。ここにはバルティマイという名前の盲人の癒しが伝えられています。イエスに癒された人で名前が記されるのは極めて稀です。マタイ_マタイは二人の盲人_もルカもこの記事を伝えていますが、盲人の名前は記していません。マルコだけが「バルティマイ」の名前を紹介しているのです。マルコにとって盲人バルティマイの癒しは、イエスの福音を語る(1:1)上で何か特別の意味を持っていたのではないか。聖霊の照明を祈り求めつつ、御言葉に聞きたいと思います。
マルコはこの記事をイエスがエルサレム神殿に入城する直前に置いています。実は、マルコ福音書の構成によれば、この記事はフィリポ・カイサリア地方での出来事に対応しています(8:27以下)。フィリポ・カイサリアはイエスのガリラヤ伝道の最北端に位置し、イエスの旅の目的地であるエルサレムから最も遠く離れた場所です。そのフィリポ・カイサリアでの出来事を転換点として、以後、イエスの歩みはエルサレムに向かいます。このイエスの歩みに呼応するように、マルコはバルティマイの癒しの記事を「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」(52)と結ぶのです。
イエスの歩みの転換点となったフィリポ・カイサリアで何があったのか。イエスはガリラヤ伝道の成果を確認するかのように、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(8:27)と問われます。すると弟子たちは、「洗礼者ヨハネ」、「エリヤ」、「預言者の一人」と答えます(28)。それを聞くとイエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われます。その問いにペトロが、「あなたは、メシアです」と答えます(29)。このペトロの告白は、人々がイエスを「洗礼者ヨハネ」、「エリヤ」、「預言者の一人」と告白した延長線上、つまり〈政治的メシア〉を意味します。イエスに政治的メシアの期待をかけることは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(8:33)という叱責から明らかなように、致命的な間違いです。
ところで、このフィリポ・カイサリア地方での出来事で興味深いのは、イエスに政治的メシアの期待をかけながら、その象徴的代名詞である「ダビデの子」という表現がないことです。マタイはイエスを繰り返し「ダビデの子」と紹介していますが、マルコ福音書でイエスを「ダビデの子」と呼ぶのは、盲人バルティマイだけです! マルコは、イエスを「ダビデの子」と呼ぶバルティマイで何を描いたのか? マルコは、フィリポ・カイサリアからバルティマイの癒しの間にイエスは三度、人の子の受難と死と復活について語ったとしています。そしてマルコはバルティマイの癒しを、三度目の受難告知に対する弟子たち(ヤコブとヨハネ)の無理解と、エルサレム入城の間に置いたのです。
この福音書の構成は、内容と密接に関連しています。福音書記者たちはイエスに関する様々な資料をそれぞれの信仰、神学によって、ピースを組むように並べて福音書を創り上げました。ある聖書学者は、マタイ福音書は28章16節以下の「すべての民をわたしの弟子にしなさい」という「大宣教命令」を頂点とする、「弟子作りとしての宣教」がその内容であるとし、また、ルカ福音書の構成から浮かび上がる内容を、「赦しの実践と貧しい者との連帯」としました(デイビッド・ボッシュ)。では、マルコ福音書の構成から見えてくる内容は何か。マルコ福音書はバルティマイの癒しの記事の直前に語られた、「人の子は仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(10:45)が頂点であると言われます。つまり、マルコ福音書の構成と内容から浮き上がってくるのは、パウロ同様、〈十字架の言葉〉なのです。
Ⅱ.神の負債
フィリポ・カイサリアの出来事が明らかに語っているように、力ある業と権威ある新しい教えで神の国の福音を宣べ伝えたイエスに、人々は〈政治的メシア〉の期待をかけました(ルカ24:21、ヨハネ6:14−15)。その期待に反してイエスは、人の子の受難告知を三度繰り返し、ご自分を人類の罪を贖う〈終末論的メシア〉であると語られたのです。そして今マルコは、三度目の受難告知と弟子たちの無理解に続けて、盲人バルティマイの癒しの記事を置き、満を持したかのように、イエスを「ダビデの子」と紹介するのです。
「ダビデの子」イエスは終末論的メシアであるとはどういうことか? そのことを黙想していた時、サムエル記下7章「ナタン預言」に導かれました。ダビデは、自分が王宮に住み、神の箱が天幕に置かれていることに心を痛め、ナタンに神殿建立の思いを告げます(7:2)。ナタンはダビデの計画に賛成します(7:3)。しかし神がナタンに現れ、わたしこそダビデの家を建てるものであり、神殿を建てるのはダビデではなく、その子孫であると言われたのです。
_あなたの身から出る者が「わたしのために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。……彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。(しかし)わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。……あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」(7:13−16)_と。
このナタン預言は、何世紀にもわたって休むことなく驚きを与え、つねに新しく解釈されました。最古の層においては、神の約束はダビデのみに向けられています。より新しい層になると、神の約束はダビデの子孫へと向けられ、さらに時代が進むと、神の民全体へと移るのです。北王国イスラエルは前721年アッシリアによって滅ぼされ、南ユダは前586年バビロニアによって滅ぼされます。驚くべきことに、国家が滅び、王政が廃されるという激動の時代の中で、「あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」というナタン預言は次々と新たに解釈され、現実的な意味を持たされたのです。
ルカは、この驚きを使徒言行録1章、イエスの復活顕現物語で描いています。死から甦られたイエスは弟子たちに40日にわたりご自分を顕されます。そのとき使徒たちはイエスにこう尋ねたのです。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるの、この時ですか。」ルカは使徒たちのこの問いで、政治的メシアへの期待を語ったのです。言い換えれば、使徒たちはまだ聖霊を受けていなかったので、イエスが人類の罪を贖う〈終末論的メシア〉であると理解できなかったのです。
ところで、ナタン預言が、時代の激しい移り変わりの中で、常に繰り返し新たに解釈され、現実的な意味を持たされて来たとは、「旧約はつねに成長する期待の書と読まれる」た(フォン・ラート)ということです。このつねに成長する期待の書の最古の基礎は、モーセ以前の族長たちに与えられた土地約束です。しかし顕著なことに、いかなる成就もこの期待を満足させ、それに終止符を打つことはできませんでした。ヨシュアによる土地取得の成就は語られます(ヨシュア記24章)。しかしそれでもって神の約束が最終的に成就したとは考えられていないのです。ヨシュアがヨルダン川を渡り、約束の地に入ったのは前1200年ごろです。それからはるかに時代が進んでおよそ600年後、申命記の著者は、イスラエルはまだ土地約束の成就以前に立っていると信じており、神の言葉に真実に適った実現を未来に期待しつつ、モーセに〈遺言〉という文学的形態で語ったのです。こうしてイスラエルはいかなる約束も無にすることなく、神の約束を測りしれないものへと成長させたのです。神の成就の可能性にいかなる限界もつけず、約束を未成就のまま神の負債として加算し、来たるべき世代に語り伝えたのです。
Ⅲ.喜び踊れ!
マルコが、盲人バルティマイの癒しで描いたのは、この未成就のまま来るべき世代に語り伝えられた神の負債の支払いなのです! バルティマイは、目の前をナザレのイエスが通ると知ると声を限りに、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びます。この叫びは、詩編86編の詩人が、「主よ、憐れんでください、絶えることなくあなたを呼ぶわたしを」と祈った祈りを彷彿とさせます。この憐れみを求める叫びは、すべてのキリスト者の原体験なのです。
バルティマイはすべての信仰者の原体験である憐れみを、ダビデの子イエスに求めたのです。 当時の人々の考えでは、目が見えないとは、「本人か、両親」が罪を犯した結果でした(ヨハネ9:2)。つまりマルコは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫ぶバルティマイで、イエスが譬えで語られた徴税人の祈り、「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」(ルカ18:13)を描いたのではないか。
多くの人々が盲人を叱りつけ、黙らせようとしますが、彼はますます、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けます。その叫び声にイエスは足を止め、「あの男を呼んで来なさい」と言われます。すると人々は一転して、盲人に「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と言ったのです。これを聞くと盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来たのです。この盲人の姿は、私たちの姿そのものです。私たちは毎週、イエスの招きを聞いて、日常という上着を脱ぎ捨て、聖なる装いをもって、躍り上がって教会に来るのです! 聖なる装いとは、「潔白な手と清い心」(詩24:4)のことではありません。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という罪の実感です。罪を実感する者だけが十字架のキリストに近付くことができるのです! イエスは「わたしが来たのは、罪人を招くためである」と言われたからです。
盲人が喜び勇んでイエスのところに来ると、イエスは、「何をして欲しいのか」とお尋ねになります。なぜイエスは、「わたしを憐れんでください」と叫ぶ盲人を前にして、「何をして欲しいのか」と尋ねたのでしょうか? この時のイエスの態度はベトサイダで盲人を癒やされたとき明らかに違います。あの時イエスは「盲人の手を取り、村の外へ連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いた」(8:23)のです。ところがここではイエスは、「何をして欲しいのか」と言われたのです。実は、同じ言葉をイエスはこの直前、ヤコブとヨハネにも語られました。ヤコブとヨハネが、お願いしたいことがあると願い出ると、イエスは、「何をして欲しいのか」(8:36)と言われたのです。するとヤコブとヨハネは、「栄光をお受けになるとき、一人を右に、一人を左に座らせてください」と、反キリスト教的願いを口にしたのですが、バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えたのです。
盲人の目が見えるようになるとは、オリエント世界において、悩みも嘆きも痛苦ももはや存在しない救いの時を示す最古からの言い廻しです。わたしは先ほど、イスラエルはいかなる約束も無にすることなく、神の約束を測りしれないものへと成長させた。神の成就の可能性にいかなる限界もつけず、約束を未成就のまま来たるべき世代に伝え、神の負債として加算したと言いました、と語りました。マルコは、盲人バルティマイの癒しで、この未成就のまま来たるべき世代に加算された神の負債をイエスは十字架で支払うことを描いたのです。「人の子は仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(10:45)と! それがマルコ福音書の頂点なのです。
この終末論的救いを端的に描いのが、この単元の結び、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」です。イエスは言われます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」この信仰について端的に語ったのが「ヘブライ人への手紙」です。_この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。(この地上には永続する都はありません。)更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望しているのです。」(11:13−16)。
マルコは、「盲人は見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」で、すべての信仰者が熱望する「更にまさった天の故郷」を描いのではないか。私たちもバルティマイと共に、この世という上着を脱ぎ捨て、喜び踊りながら、聖なる装い、「わたしを憐れんでください」と祈りつつ、天の祝宴を先取りする主の晩餐にあずかりたいと思います。