讃美歌 529
イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、……「取りなさい。これはわたしの体である」と言われた。また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、……言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マルコ14:22−24)
Ⅰ.過越の小羊を屠る日に
きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言葉は、イエスが十二弟子と行われた最後の晩餐を巡る記事です。「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」に、天地万物が崩れ去る終末論的出来事が起こったのです。この食事の後、イエスは十字架で殺されるのです。この日を境に、古いものは過ぎ去り、すべてのものが新しくなったのです。
マルコはその日に、際立った三つの出来事があったと伝えます。第一は、過越の食事の席をどこに用意するかを巡るイエスと弟子たちの対話です。イエスは二人の弟子を遣わすにあたり具体的な指示を与えます。弟子たちが都に入ると、何もかもイエスの指示通りであったので、彼らは用意の整った席を二階の広間に準備します。この記事を読んで、気になることがあります。何もかもイエスの指示通りであったとは、マルコはイエスの予知能力を描いたのか、という疑問です。それは十分考えうることですが、わたしはエフェソ書の言葉がことの真相を知る手掛かりになると考えます。そこには、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、……御子において、その血によって贖われ、罪を赦された」(1:4、7)と語られます。それによれば、イエスはこの過越の食事を、天地創造の前に備えられたのではないか。言い換えれば世界は、天地創造の前に、父である神が御子イエスを十字架にあげることを決意した愛によって存在しているのです。
ヨハネはその愛を、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3:16)と語り、また、御子イエスは、「世にいる弟子たちを愛して、極みまで愛し抜かれた」(13:1)のと語りました。キリストの十字架が世界の中に立っているのではないのです。十字架のキリストの下に世界は成り立っているのです!
「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」に起こった第二の際立った出来事は、十二弟子の一人がイエスを裏切る事です。十二弟子の一人がイエスを裏切る! それがいかに深刻であるかは、使徒の数十二がイスラエル十二部族を表し、終末時の救いの共同体を代表していることから明らかです。イエスの時代に確認された十二部族は、ユダ族とベニヤミン族、それにレビ族の半部族でした。他の九部族半は前722年、北王国の滅亡とともに行方不明となったのです。そうした現実にあって神は預言者を通し、終末のとき、イスラエル十二部族を再建すると語られたのです(エゼキエル37:15以下)。つまりイエスは十二人を選ぶことで、終末時の神の民の実現を言い表したのです。それを象徴的に描いのがマタイです。マタイは、「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(19:28)というイエスの言葉を伝えています! 終末において神の救いが完成する時、イエスを裏切るイスカリオテのユダも、「十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる!」いったい、イエス以外の誰が、このような常軌を逸したことを語りうるか。
神の救いが完成し、新しい世界になると、イスラエルの十二部族を治めるユダが、イエスを裏切るのです! ユダとは、いったい、何者なのか? イエスは言われます。「人の子は、聖書に書いてあるとおり、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(23)。この言葉は、ペトロに語られた「サタン、引き下がれ」を遥かに凌駕しています。祭司長や律法学者たちは、イエスを殺そうとその機会をねらっていました。しかし民衆が騒ぐことを懸念して、祭りの間に殺すことを断念します(14:1−2)。そうであるのにイエスが祭りの間に殺されたのは、イスカリオテのユダの裏切りがあったからなのです(14:10−11)。
Ⅱ.ユダという現象
いったい、ユダとは何者なのか? そのことを黙想している時、ユダと神を裏切り続けるイスラエルの民の姿が重なりました。たとえば、信仰の父アブラハムの生涯は、神の約束の遅延による信仰の試練の連続です(創世記12−23章)。そのアブラハムの生涯は、イスラエルの民が約束の遅延により経験した試練を反映していると解した人がいます。「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」とは、イスラエルの民が奴隷の地エジプトから救い出されたことを記念する祭りです。そうであるのにイスラエルは奴隷の地から救い出した神を忘れ、カナンの豊穣神バアルに膝をかがめたのです(ホセア11:1−7他多数)。ユダは、この神を裏切り続けたイスラエルの民の象徴ではないのか?
マルコが描くこの記事で目を引くのは、「イスカリオテのユダ」の名が語られていないことです。「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」というイエスの言葉を聞いた弟子たちは皆、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めたのです(19)。この弟子たちの反応を反芻するなかで、思い出した言葉があります。教会史家レーヴェニヒが迫害下にあったキリスト者について語った言葉です。
_教会は耐え抜いた。われわれはこのことについて神の導きの奇跡を崇めるのが当然である。教会の内部の状態に目を向けると、そこでは多くのものが腐っていた。信徒たちの信仰状態は、種々さまざまの迷信やこの世とのあらゆる面での妥協について語ることができる、という有様であった。_
私たちは信仰、希望、愛において神を裏切り続けているのではないか。その意味で私もイスカリオテのユダではないのか。そう語ったのはパウロです。パウロは、わたしは「罪人の中で最たる者」(Ⅰテモテ1:15)と語りました。パウロが「罪人の中で最たる者」であるならば、わたしも、罪人の中で最たる者なのです。私に、救いはあるのか?
旧約聖書は、特に預言書は、神を裏切るイスラエルへの糾弾に溢れています。例えばホセアは、神を裏切るイスラエルは「わたしの民ではなく、わたしはあなたたちの神ではない」(1:9)と語りました。しかしすぐその後で、あなたたちは「生ける神の子ら」(2:1)と語ります。ホセアが語る「わたしの民ではない」と「生ける神の子ら」との間には、超えることができない深い断絶、無限の隔たりがあります。この断絶がいかに深いかを、ホセアは、神の慟哭で描きます。神は悲しみの余り、声をあげて泣いたのです。
「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。……
わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」(11:8)と。
ホセアは、「あなたたちはわたしの民ではない」と「生ける神の子ら」であるとの間の超えることができない断絶を神は、腑がよじれるほどの痛みで超えてくださると語ったのです。
マルコはこの段落を、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」という激烈な言葉で結びます。この「生まれなかった方がよかった」者が、「新しい世界になり、人の子が栄光の座に着くとき、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることなる」とイエスは言われたのです! イエスを裏切るユダが、天と地が新しくなるとき、イスラエルの十二部族を治めることになる! この無限の隔たりを超えるためにイエスは十字架に上げられたのです! 言い換えれば、神は天地創造の前に、わたしたちを愛して、御自分の御前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになったのです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪ゆるされたのです。
イエスを裏切るユダと、イスラエルの十二部族を治めるユダとの間の深い断絶を、神は、御子イエスを十字架に上げるという、腑が千切れるほどの痛みで超えてくださるのです。この愛が、人を新たに生まれ代らせるのです(ヨハネ3:1−16)。それを象徴的に語ったのがマタイです。マタイはイエスが十字架で死んだとき、「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについて多くの聖なる者たちの体が生き返った!」と証言しました。この証言は福音伝承最古層の一部であるといわれます。ここには最初の日々の雰囲気がなお何がしか保たれています。イエスが十字架で死んだとき、地は震い、死者たちは生き返り、新しい世が今や訪れたというのです! 然り、神の国が来たのです!
Ⅲ.神の国の祝宴
神の国が来た、この圧倒的な自覚が形をとったのが主の晩餐です。マルコは天地万物が崩れ去り、新しい天と新しい地が始まる第三の出来事として、十字架のキリストを「記念」する主の晩餐の制定を語ります。 十字架のキリストを記念する主の晩餐は、イエスの十字架を、「いま、ここ」に実現するだけではなく、十字架が指向する終末のことがらもまた先取りされて現在化されるのです。この天上で行われる祝宴を垣間見せる出来事が旧約にあります。出エジプト記24章、シナイ契約が結ばれた後、モーセとアロン、そしてナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老たちがシナイ山に登り、「神を見て、食べ、また飲んだ」という記事のです。この「神を見て、食べ、また飲んだ」祝宴は、神の言葉が語られ、それを聞いた人々が、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と答えて契約が結ばれたことの徴として、命である血が祭壇と会衆に振りかけられる儀式の後に続いて起こります。
それにしても、神の言葉が語られ、それを聞いた人々が、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と答えて契約が結ばれた徴として、命である血が祭壇と会衆に振りかけられた後に、「神を見て、食べ、また飲んだ」というこれ以上ない至福の物語は、どのような霊感が働いて創作されたのでしょうか? 出エジプト記24章が描くこの食事は、非常に古い交わりの犠牲であると言われます。この交わりの犠牲で、つまりエジプトから救い出されたことを記念する過越の食事で、人は、神が見えない食事仲間として参加しているのを知ったのです。イスラエルの民は、過越の食事を祝うたびに、「神を見て、食べ、また飲んだ」のです! この物語は、見えない神が食事仲間として参加している過越の食事が下地になっているのではないか。五つのパンと二匹の魚で五千人を養う奇跡物語が、主の晩餐を下地にしているようにです。
それを象徴的に描いたのがイザヤです。イザヤは「神を見て、食べ、また飲む」祝宴こそ、イスラエルの祭儀の中心であると語ります。_万軍の主はこの山(シオン)で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される」と。イザヤは、万軍の主が開く祝宴は、「すべての民」のためであると語ります。そう語ることで、この食事は終末における神の救いの完成であると告知したのです。神の救いが完成する時、異邦人も祝宴の席に着くのです(マタイ8:11)。
結びに、「神を見て、食べ、また飲む」祝宴に満ち溢れる喜びを語った第一ヨハネの言葉を聞いて終わりたいと思います。
_初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えたのです。―
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ち溢れるようになるためです!_(1:1−4)
私たちは十字架のキリストを〈いま、ここで〉のこととして描き出す主の晩餐で、「神を見て、食べ、また飲む」のです! 私たちは天上の祝宴にあずかるのです。