2026/10/25 聖霊降臨節第23主日  「破局に直面して」

ルカ福音書12:13-21、エフェソ書2:13-16、創世記4:19-26
讃美歌 529

「どんな貪欲にも注意しなさい。用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。……神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」(ルカ12:15、20)

Ⅰ.愚かな金持ちの譬え

きょう、私たちに開かれた〈生ける神の言葉〉は、兄弟の間で起こった遺産をめぐる調停をイエスに願い出たという記事です。遺産を巡る骨肉の争いはよく耳にします。イエスは、「だれがわたしを裁判官や調停人に任命したのか」と言って、「相続問題の〈調停人〉」になることを拒否し、そしてご自分を取り囲む群衆に、「あらゆる貪欲に注意せよ。用心しなさい。人の命は財産によらない」と言って、「愚かな金持の譬え」を語られたのです。これはルカだけが伝えている特殊記事です。

ところである研究者は、13−14節の遺産問題を巡る話は、ルカが「愚かな金持の譬え」を導入するために創作したものであると解釈しました。また21節の、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」という言葉もルカが付け加えたものであると言います。しかもルカが付け加えたこの言葉は、イエスの譬えに適合しているとはいえ、こうした付加により、イエスの譬え本来の強調点が「転位したり、しばしば根本的に変えられた」と(エレミアス)。どういうことかと言えば、イエスの譬えに結びの言葉が付加されることで、譬えが語られた原初の状況、つまり論争的な姿勢や終末的警告の鋭さ、あるいは威嚇のきびしさが曖昧にされ、道徳的な意味を持つようになったというのです。ルカはイエスの譬えに結びの言葉を付加することで、イエスが譬えを語られたときの終末的警告の鋭さを曖昧にしたのでしょうか? この一点を巡り、聖霊の照明を祈り求めつつ、御言葉に聞きたいと思います。

イエスがこの譬えを語られた意図は15節、「どんな貪欲にも注意しなさい。用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」に端的に表現されています。イエスはこの真理を譬えで語られたのです。富を手にして、これから先何年も安心だという農夫を「愚かな者」と言い、神は一夜にしてその命を終わらせる!と言われたのです。ルカはこの差し迫った審判を語る譬えに、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」という結語を付加したのです。そうすることでルカは、破局に直面した人間に対する終末的警告の鋭さを曖昧にし、道徳的な意味に改変したのでしょうか?

この問いに答えるために、ルカが生きた80年代後半の教会の状況を一瞥したいと思います。ある研究者はルカが生きた80年代後半の教会の状況を次のように語りました。_ナザレのイエスに関する重大な出来事が起こってから半世紀以上が経過した。その間に多くのことが起きた。ユダヤ教の改革運動として始まったキリスト教会は、それまでの四十年ほどの間にほとんど完全に変貌した。イエスの存命中、イエスに従った人々の大半はユダヤ人であったが、80年代後半になると、教会はどの点から見ても異邦人の教会になっていた。初代の信者たちが熱心に期待していたキリストの再臨は起きなかった。_パウロは「テサロニケの信徒への手紙 一」で、自分が生きている間にキリストの再臨があると語っています(4:15)。しかし、初代の信者たちが熱心に期待したキリストの再臨は起きなかったのです。再臨の遅延という状況にあってルカは、イエスの譬えに結びの言葉を付加することで、終末的警告の鋭さを道徳意味に改変したのか?

実は、ルカが教会の状況に合わせて、イエスの譬えに一文を付け加えたことは、旧約の聖書記者たちが行ったことに通じます。聖書記者たちは先達が伝えた記事を、自分たちが生きた時代の状況に合わせ、再解釈し、現実的な意味を持たせたのです。ルカは、再臨の遅延という80年代後半の教会の状況の中で、イエスが語られた、「『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」という切迫した終末的状況を「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と再解釈し、現実的な意味を持たせたのではないか。

Ⅱ.解き放たれた欲望

ところで、ルカが伝えた「愚かな金持ち」の譬えは、極めて現代的意味を持っています。今から半世紀前、1973年、私たちの国が高度経済成長の坂を登り始めたとき、井上陽水はアルバム『氷の世界』を発表し、「限りないのは欲望」と歌いました。陽水は、豊かさを求めて奔走する人々の世界を「氷の世界」と言ったのです。物質的豊かさの追求の陰には何があるのか? そのことを黙想していた時、人類最初の殺人者カインの末裔レメクの物語に導かれました。聖書記者は、レメクの時に人類は富を手にしたことを次のように描きます。「レメクは二人の妻をめとった」(創世記4:19)。二人の妻を娶ることができたとは、富の蓄積が起こったということです。しかもこの二人の妻から生まれた三人の息子の一人、ユバルは「竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった」(21)のです。つまり畑を耕したり、物を作る労働に携わらない者を養う富が蓄積されたのです。また、カインの名を受け継いだレメクの息子トバル・カインは「青銅や鉄」で道具を作る者になり、人類は武器を手にしたのです! 富と武器を手にした人類に起こった変化を聖書記者は次のように語ります。

「レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。
わたしは傷の報いに男を殺し、
打ち傷の報いに若者を殺す。
カインのための復讐が七倍なら、
レメクのためには七十七倍!」

レメクは、神ではなく富に仕える者となって、七十七倍の復讐を誓ったのです。ここに私たちが今、現に見ている世界が始まったのです。富の蓄積が欲望を解放したのです。「カネは元来、必要もしくは欲望を満たす手段としてみられるが、同時に欲望の大きな解放者」である(アルビン・トフラー『パワーシフト』)。人はカネを手にすることで、それまで自覚しなかった欲望をいだくようになったのです。ヤコブは、欲望が解放された世界の行き着く先を次のように語りました。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます!」(1:14−15)。富を手にした人類は文字通り「死を前にした人間」なのです。

1991年、バブルが崩壊した混乱の中、共同通信社はルポルタージュ『日本の幸福』シリーズを刊行しました。1980年代の半ばごろから90年代にかけての日本の状況を、人びとの心の姿をとおして描きだそうとした意欲作です。このルポルタージュを束ねた斎藤茂男はその思いを次のように語りました。カネとモノによって心を狂わされ、あるいは競争と効率の原理一色に塗りつぶされている社会のメカニズムに翻弄されて、心を病む人びと、それが私のこよなく愛しく思う「普通の人びと」であり、取材対象でもあった、と。

ルカが、貧しい人々や周縁に追いやられた人々に対して特別な関心を持っていたことは、一般に認められています。それは受胎告知を受けたマリアの賛歌、「(神は)飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(1:53)に端的に表現されています。このマリアの賛歌の主旋律はルカ福音書全体を貫いています。きょう、私たちに開かれた「愚かな金持ち」の譬えはもとより、富める者と貧乏人ラザロの物語(16:19−31)、そして、徴税人ザアカイの典型的な行動(19:1−10)を見るだけで十分です。これらは皆、ルカの特殊記事です。

ところで、ルカ福音書を貫く、「(神は)飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返される」を社会科学的視点で捉えた人がいます。「ルカの関心は、彼が書いていた社会問題にあった。すなわち、人々や子供たちから尊厳と自分らしさ、視力と声とパンを奪い、自分の利益のために彼らの生涯を支配しようとした一世紀の社会における悪霊と悪の諸力である」と(マザミサ)。

ルカが、貧しい人々に向けた視線は、共同通信社がルポルタージュ『日本の幸福』シリーズで描いた社会科学的視線なのか? すでに見たようにルカは、貧しい者や周縁に追いやられた人々に対して特別な関心を持っています。しかし、この主題は、ルカが書いた「使徒言行録」には影を潜めます。使徒言行録には、十を越えるペトロ、ステファノ、パウロの説教がありますが、その中に、貧しい者に関する言及は一つもありません。ルカは使徒言行録で、福音書において中心的であった貧しい者の位置に、「異邦人」を置いたのです。

Ⅲ.新しい人の誕生!

実は、ルカ福音書には、福音書の主題である貧しい者への福音と、使徒言行録の主題である異邦人への福音を一つに結び合わせた記事があります。それは、イエスが宣教を開始された、郷里ナザレの会堂の場面です。イエスは係の者からイザヤの巻物を手渡されると次の箇所を朗読します。

主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力を回復し、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。(4:18−19)。

イエスはここまで読まれると巻物を係の者に返し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたときに、実現した」(21)と宣言されたのです。

イエスが朗読されたイザヤの言葉には、一見すると社会問題、政治的発言があります。しかし、それが政治的次元の事柄でないことは、盲人の開眼が語っています。盲人の開眼は、耳の聞こえない人が聞き、口の利けない人が上げる歓声とともにオリエントにおいて、悩みも嘆きも痛苦ももはや存在しない救いの時を示す最古からの言い廻しです。つまりルカは、イエスがイザヤの言葉を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたときに、実現した」と語ることで、終末における神の救いの完成を描いのです!

それを象徴的に描いのが、この後に展開される異邦人の救いです(25−27)。イエスは、エリヤの時代に大飢饉が起こった時、エリヤはイスラエルの寡婦ではなく、シドン地方のサレプタの寡婦に遣わされ、また、エリシャは、重い皮膚病で苦しむイスラエル人ではなく、シリア人ナアマンに遣わされたことを取り上げたのです。異邦人の救いにおいて、人間の罪によって呪われた死の世界が(創世記11章)、命溢れる祝福された世界に再創造されるのです(創世記12:1−3)。

イエスはそれをイザヤの巻物の朗読で象徴的に示しました。イザヤの巻物には、「主が恵みをお与えになる年」の後に、それと対をなす「わたしたちの神が報復される日」が続いているのです。イザヤが語った「主の恵みの年」とは、神が異邦人に報復去れる日なのです。ところがイエスは、「わたしたちの神が報復される日」の直前で朗読を打ち切ったのです。つまり、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたときに、実現した」とは、「もはや復讐はない!」ということです。イエスは、レメク以来世界を多い尽くした報復の連鎖を断ち切られたのです。

それを端的に語ったのがエフェソ書です。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、……双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(2:14−16)。

十字架のキリストにおいて、富ではなく、神に仕える新しい人が誕生したのです。かつて神は土の塵から人を造り、命の息を吹き入れて人は生きる者となりました。その人間が際限のない欲望の奴隷となった時、今度は、神はキリストの肉と血によって新しい人を造られたのです! 「だれでも、キリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、全てが新しくなったのである!」それを高らかに宣言したのが、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたときに、実現した」です。ルカはイエスが語られた譬えの原初の意味・終末的警告の鋭さを再解釈し、それに現実的な意味を持たせたのです。現在すでに神の赦しがあり、現在すでに神はその約束を成就し、現在すでに人々の祈願に答え、現在すでに聖霊を与え、現在すでに御子を与え尽くすことによって「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(17:21)と宣言したのです。

聖書記者は七十七倍の復讐を誓うレメクの記事を次のように結びました。「再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。……セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」(4:25―26)と。「エノシュ」とは、「人、人間を意味する詩的な表現」(スタディバイブル)ですが、その意味は土の塵から造られたアダム同様、弱さ、脆さです。つまり聖書記者は、人_この場合全人類です_が主の御名を呼び始めたのは、七十七倍の復讐が渦巻く世界を生きる人間が自らの弱さを自覚した時であるとしたのです。わたしは、ルカが、貧しい人々に特別の視線を向けたのは、社会科学的視線ではなく、極めて宗教的次元の視線、つまり十字架のキリストからの視線であると考えます。人は十字架のキリストを知り、自分が塵芥であることを知る時、生ける神ヤハウェの名を呼び始まるのです!(フィリピ3:5−11)。

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