2026/11/1 召天者記念礼拝  「輝く全身」

ルカ福音書11:29-36、ロマ書5:15-21、出エジプト34:29-33
讃美歌 529

あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。……ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。(ルカ11:34―35、36)

Ⅰ.ヨナのしるし

きょう、私たちは、主にあって召された聖徒たちを記念する礼拝を守っています。この日、心を高く上げて聞きたい御言葉は、「あなたの体のともし火は目である。……目が澄んでいれば、……全身は輝いている」というイエスの言葉です。顔と顔を合わせて神と語ったモーセの顔が輝いていたように(出エジプト34:29)、私たちも目には見えなくてもこの礼拝に臨在されるイエスを見て、全身が輝きたいと思います。

ところでルカは、目が澄んでいれば、全身が輝いているという記事の前に、目が濁り、全身が暗い人々人々の記事を置いています。しるしを求める人々です。同じ記事がマタイにもありますが、マタイは、しるしを求める人々の記事を12章(38節以下)に、ともし火についての記事を5章(14節以下)に配置しています。つまり本来別々に伝わった伝承を一つに結びつけたのはルカです。いったい、ルカはどのような景色を見たのでこの二つの伝承を一つにまとめたのか? 聖霊の照明を祈り求めつつ、ルカが見た景色を見たいと思います。

ルカはこの一連の記事を、「群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。『今の時代の者たちはよこしまだ』」という言葉で導入します。「今の時代」という言葉は新約に十四ありますが、マルコ13:30を除いてすべてが厳しい非難です。また、「よこしま(邪悪)」という語は、『新約聖書釈義事典』によれば、「強度に倫理的・道徳的特色が明らかとなり、人格的な堕落を示す」と解説されています。イエスはこの二つの言葉を重ねることで、ご自分の周りに集まってきた群衆の目を、自分の内側に向けさせたのです。あなたの目は澄んでいるか、あなたの全身は輝いているか、と。改めて言うまでもなく、この「あなた」には、「わたし」が含まれています。神の言葉は〈わたし〉に向けて語られているからです!

神から語りかけられた人がどのような反応を示すかを描いた箇所があります。ネヘミヤ記8章、律法の書記官エズラが神の言葉を朗読した記事です。「民は皆、律法の言葉を聞いて泣いた」のです(8:9)。神の言葉を聞いて理解した人は、己が罪を知り、嘆き、悔い改めるのです! この神の言葉を聞いて泣いた人々の対極にいるのが、しるしを求める人々です。イエスはその人々を、「今の時代の者たちはよこしまだ」と言われ、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われたのです。「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる!」と。ヨナがニネベの人々のしるしとなったように、人の子が今の時代の者たちのしるしになるとはどういう意味か?

まず注目したいのは、ヨナがニネベの人々のしるしとなったことです。それは、「ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定める!」ということです。なぜニネベの人々は、今の時代の者たちを罪に定めるのか? 「ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めた」(32)のに、今の時代の人々は、イエスの言葉を聞いても悔い改めないからです。ユダヤの法によれば、判決には少なくとも二人の証言が必要です(申命記17:6)。そこでイエスはヨナのしるしの他に、南の国の女王をしるしとして取り上げます。「南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである」と。こうして二人の証人の証言により「今の時代の者たち」は罪に定められるのです。

Ⅱ.人の子のしるし

イエスは、終わりの時が間近に迫っていることを倦まずに語られました。ところが、「今の時代の人々」は、ノアの洪水の世代や(ルカ17:26以下)、ソドム、ゴモラの住民(ルカ17:28−30)のように、その時を知ろうとさえしないのです。彼らはこの世の楽しみと欲望に溺れながら毎日を屈託なく送っているのです。日常性を分析したハイデッガーの言葉が心に迫ります。ハイデッガーは「日常性」の分析を試み、そこに、いいようのない憂愁を掘り当てました。_人びとはなぜ日常の世界に埋没しているのか。なぜおしゃべりをし、生活のあれこれを配慮し、そして日々の習慣の軌道を安易にすべってゆくのか。それは日常性という板子一枚の下に、おそろしい「無」、すなわち死が隠れているからだ。この「無」から目をそらすために、人びとは優しく手を差し伸べる「日常の世界」をつくり出し、そこで安らかに眠る_と。

ハイデッガーが掘り当てたこの「日常の世界」こそ、イエスが言われた「今の時代」の実相なのです。イエスは日常の世界で安らかに眠る人の眠りを覚ます警鐘を鳴らしたのです。

禍だ、お前たち富める者よ、
禍だ、お前たちは満ち足りた者よ、
禍だ、お前たち笑いさざめく者よ、
禍だ、お前たち、自信一杯の者よ、と(ルカ6:24−26)。

しかし、この警鐘がイエスの最後の言葉ではありません。イエスは言われます。「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる!」と。人の子が「今の時代の者たち」のしるしとなる! これがイエスの最後の言葉です。人の子が今の時代の者たちのしるしになるとは、裁きの時、南の国の女王やニネベの人々が立ち上がり、今の時代の人々を罪に定める以上の罪の裁定を下すということか? それを読み解く鍵は、「ここに、ソロモンにまさるものがある」、「ここに、ヨナにまさるものがある」という言葉です。イエスが、ソロモンにまさる者、ヨナにまさる者である、とは、苦悩と審判の時代に終わりが来たということです。

神の民イスラエルの不従順ゆえに沈黙された神が、長い中断の後、沈黙の封印を解き、かつて預言者たちの時と同じく、「この終わりの時には、御子によって」語り始めたのです(ヘブライ1:1−2)。それがイエスの言われた、「より大いなること」、「預言者以上の者」、「ソロモンにまさる者」、「ヨナにまさる者」の意味です。

神が終わりの時に、御子イエスによって語り始めたとは、中断していた救いの歴史が再び進行し始めたというだけではありません。旧約の救済史を遥かに超えるものが現れたのです。パウロはそれを次のように語りました。「恵みの賜物は罪とは比較になりません。……恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。……罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

この十字架のキリストによる「永遠の命」こそ満ち溢れた恵であり、「より大いなること」、「預言者以上の者」、「ソロモンにまさる者」、「ヨナにまさる者」の意味なのです。イエスは言われます。

「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである」と(ルカ4:18)。

イエスの上に霊が注がれたことで、救いの時が始まったのです。「命を与えるのは“霊”である!」(ヨハネ6:63)。霊が終末の時に再び戻って来たのは、神がその救いの業を成就するため、その民の下にいつまでも留まるということです(マタイ28:20)。こうして霊の終末論的現存は、「だれでも、キリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」という新しい創造を意味するのです。

Ⅲ.美のひと

キリストにあって新しく造られた人の目は澄んでいるのです! キリストにあって新しく造られた人は全身が輝く〈美のひと〉なのです! 何を美しいと感じるかは、育った文化によって異なります。聖書の民も多くの文化的民族同様、人やその姿に、また花鳥風月に美しさを見ました。しかし聖書の民は宗教的領域において、つまり祭儀において、最高の形態における美しさの現実性に出会ったのです。詩編50編の詩人はそれを次のように言い表しました。

「麗しさの窮み、シオン、から、神は光を放たれる。
われらの神は来て、黙されない。
み前には焼き尽くす火があり、
その回りには激しい暴風がある」(2、3)。

フォン・ラートは言います。「最高の美は、ヤハウェがイスラエルの歴史的実存(=罪の現実)の中へと降下したことである。……イスラエルにとって特徴的なことは、神の自己放棄に至るまでのヤハウェの下降には輝き出る美しさがある」と。その意味で、神であるキリストが人間となり、十字架の死を遂げたことは、聖書の民にとって「最高の美」なのです。

十字架のキリストは人類が経験しうる最高の美であるだけではありません。フォン・ラートは言います。「救済の恵みもまた美をもつ。……人間が自らを神の好意の対象と認めることが許されたとき、神が人間の『頭を持ち上げられた』とき、最後には人間自身が美しく登場する」と。これが、パウロが語った満ち溢れる恵みです。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれ……わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導く」のです!

パウロのこの言葉から判るように、私たちを美のひととして輝かすのは、私たちの内に生きるイエス・キリストという〈ともし火〉なのです。十字架のキリストという最高の美が、モーセの顔が輝いたように、わたしの全身を輝かすのです! 十字架のキリストという最高の美によって生きるキリスト者は、つまりキリストの肉と血によって生きるキリスト者は、〈美のひと〉なのです。

キリスト者の美しさを描いた物語があります。ジャン・バニヤンが書いた『天路歴程』です。バニヤンは『天路歴程』の第一部で、聖書を縦横に駆使し、滅びの市から神の都シオンを目指すクリスチャンがその旅路で経験する様々な試練を描きます。第二部は、クリスチャンが旅立った後、滅びの市に残った妻クリスティアナと子供たちが夫の後を追い、シオンへの旅で経験する様々な試練が描かれます。その中に、半世紀を経てもなお忘れられない描写があります。それは沐浴した婦人たちが用意された白い衣を着る場面です。バニヤンはそれを黙示録19:8が語る小羊の婚宴の一場面、花嫁が、輝く清い麻の衣を着せられる箇所に準えて描きました。「女たちがこのやうに飾られた時、互いに恐ろしいもののやうに思はれた。何故なら、彼等は各互に見ることの出来た栄光を己れ自らの上には見ることができなかったからである。今や、それ故に、彼等は互に彼等自身よりも尊びあった。『あなたは私よりも美しいのですから』と、一人が言った。すると、『あなたこそ私よりも美麗ですよ』と、対手は言った。」

バニヤンがこの女たちで描いたのは、イエスが言われた、「目が澄んでいれば、……全身は輝いている」の意味ではないのか。「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしのうちに生きている」(ガラテヤ2:20)という者は、自分の美しさには気づかず、相手の美しさを讃嘆するのです。十字架のキリストに神を見た者の目には、キリストにある兄弟が美しく見えるのです。今道友信は『美について』の結びにこんな言葉を記しています。「われわれの命に立ち上がる力を与えるもの、それは、輝き出てくる美しさだけなのである。美のひとのみが力を喚ぶ。」十字架のキリストに神を見る「聖徒の交わり」、つまりキリストの肉と血によって生きる者キリスト者は、「今の時代」の〈存在の恵み〉なのです。

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