2026/8/23 聖霊降臨節第14主日 「万民の救い」

マルコによる福音書12:1-12、ローマの信徒への手紙11:15-26a,32-36、創世記45:3-8
讃美歌 132

ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。(マルコ12:1−3)

Ⅰ.譬えの寓喩的解釈

きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言葉はマルコ福音書12章1節以下、「ぶどう園と農夫」の譬えです。イエスの譬えは、奇跡物語とは異なり、確かな歴史的基盤の上に立っています。奇跡物語は批判的研究によるとその数は大幅に減ると言われています。それに対してイエスの譬え話は確かな歴史的基盤の上に立っているのです。私たちはイエスの譬えを読むとき、ガリラヤ湖畔で、あるいはパレスチナの埃っぽい道端でイエスの話を聞いた人々のように、イエスの側近くにいるという結論を得るのです。しかもイエスは譬えの題材を人々の身近な日常から取られたことで、子供でさえその通りだと認めることができるほどです。にもかかわらずイエスの譬えは、その原意を探索するという困難な課題を課すのです。イエスは人々の日常から譬えの題材を取って非日常、つまり神の国という未だかつて誰も見たことのないものを語られたからです(ヨハネ1:18)。

ところで「ぶどう園と農夫」の譬えの題材である人々の日常とは何か。それについてC・H・ドッドは次のように語ります。ぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た人とは、外国の大地主である。大地主が遣わした僕たちに対する農夫の反抗は、ガリラヤ農民の革命的行動を実際に記したもので、その行動は、ガリラヤに定住した熱心党によって引き起こされた、と。確かに一世紀のパレスチナは「煮え立っている釜」(フォード)であり、特にガリラヤは革命家と黙示的思想家に溢れていました(使徒5:36−37)。イエスはこうしたガリラヤ農民の日常を切り取ってこの譬えを語ったのか。

『イエスの譬え』で優れた研究成果を表したエレミアスは、「ぶどう園と農夫」の譬えは、イエスの譬えの中でも独自なもので、「マルコによる寓喩的解釈の一つ」であると解説します。寓喩とは、譬えの個々の部分に特別な深い意味を付与する解釈です。エレミアスによれば、ぶどう園の主人は神であり、農夫はイスラエルの支配者、つまり祭司長や律法学者、長老たちであり、主人から遣わされる僕たちは預言者、息子はイエス、不従順な農夫たちへの処罰はイスラエルの滅亡を象徴し、「ほかの人たちに与える」の「他の人たち」は異邦人である、というように、この譬えは全体として純粋な寓喩的性格を備えている、と言うのです。ちなみにエレミアスは、譬えの寓喩的解釈には否定的です。「痛恨に耐えないのは、イエスの譬えが幾世紀もの間寓喩的解釈によって曲解と虐待を受けて来た事実である」と語っています。マルコはイエスの譬えを寓喩的に解釈することで、イエスの譬えの意味を曲解し、虐待したのでしょうか。聖霊の照明を祈り求めつつ、御言葉に聞きたいと思います。

Ⅱ.「新しいこと」

まず注目したいのは譬えの導入部、「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」です。これはイザヤ書5章の「ぶどう畑の歌」から取られた、というのが一般的です。マタイもルカもこの譬えを伝えていますが、イザヤ書5章の「ぶどう畑の歌」との関連を取り上げたのはマルコだけです。それは次のように始まります。

「わたしは歌おう、
わたしの愛する者のためにそのぶどう畑の愛の歌を。
わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。
よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。
その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、
良いぶどうが実るのを待った。
しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」(5:1−2)。

イザヤは「ぶどう畑の歌」で、イスラエルと共なる神の歴史は比類のない失敗であったとしたのです。歴史のどこを開いても、イスラエルの拒否、不従順に出会うのです。船水衛司は、「旧約聖書の内容は古代イスラエル宗教そのものではない。旧約聖書は、宗教混淆をくり返した古代イスラエル宗教に対する一種の批判の書だからである」と語りました。バアルに膝をかがめ、ヤハウェを捨てたイスラエルによって、イスラエルを諸国の民の祝福の源とする(エレミヤ4:1−2)神の救済史は完全に失敗に終わったのです。この革命的な見方の中に預言者は族長ヤコブさえも恐れずに含めたのです。北王国イスラエルが滅亡する前8世紀の預言者ホセアは言います。

「ヤコブは母の胎にいたときから兄のかかとをつかみ
力を尽くして神と争った」(12:4)。

ヤコブが母の胎にいたとき、兄エサウの踵を掴んだのは、双子の兄弟の内ヤコブを祝福の継承として選んだ神のご計画です(25:23)。またペヌエルで神と争ったのは、ベテル物語と共に(28:11以下)ヤコブを祝福の継承者とした神の保証です(32:29)。ホセアは、神がヤコブを祝福の継承者としたことは失敗であったとしたのです。

良いぶどうが実らせるために神が行ったすべての業が失敗したというイザヤの言葉を思い巡らしていた時、天地創造の六日目の結で語られた神の言葉が思い浮かびました。神は、造られたすべてのものをご覧になり、「極めて良かった」(創世記1:31)と太鼓判を押されたのです。その極めて良い世界が、取って食べてはならないと禁じられた「善悪を知る木の実」を取って食べたことで、何も生み出し得ない呪われた死の世界になったのです(創世記3−11章)。イザヤはそれを「良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」と語ったのです。イザヤはぶどう畑の歌で描き出したイスラエルの罪を次のように語ります。

「主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、
見よ、流血(ミスパハ)、
正義(ツェダカ)を待っておられたのに、
見よ、叫喚_大声で喚く(ツェアカ)」(7)。

義は、旧約の中で人間のあらゆる生活関連にとって中心的概念です。神との、また人間同士の、さらには動物や自然との関係に対する基準です。イザヤは、神との関係の崩れが、人間相互の関係の崩れ、すなわち流血、大声で喚く叫喚になったとしたのです。イザヤが描く世界、それはまるで私たちが今、現に見ている世界です。

神は、イスラエルに対する長い、計画的な耕作作業が完全に失敗に終わったあと、歴史から引き下がってしまったのか? 逆です。神は、ご自分に立ち帰る可能性が皆無のイスラエルに(エレミヤ13:23)「新しいこと」を計画されたのです。左近淑先生は、「新しい」という語は預言者のどこにも出てくる言葉ではない。時期からいえば、捕囚期とその直後、人物からいえばエレミヤ、エゼキエル、第二イザヤ(40−55章)、第三イザヤ(56−66章)に限られると言われました。エレミヤとエゼキエルは新しい共同体の問題に関連して「新しい契約」(エレミヤ31:31)、「新しい心、新しい霊」(エゼキエル36:26他、エレミヤ31:22)を語り、第二イザヤは歴史の問題と関連して「新しいこと」(43:19他)を語り、そして第三イザヤは世界の回復の問題に関連して「新しい天と新しい地」(65:17他)を語ったと。そしてこうまとめられました。「預言者が〈新しさ〉を語ったのは、共同体・歴史・世界をめぐる論議であり、みな捕囚期およびその直後の時代の緊急かつ根本的課題であった。それは今日のわれわれの課題そのものではないか」と。神との関係が崩れて、流血と喚きが絶えることのない私たちも「新しいこと」を聞くべき時が来ているのです。

Ⅲ.隅の頭石

マルコはイエスが語られた「ぶどう園と農夫」の譬えに、捕囚期の預言者たちが語った「新しいこと」の成就を見たのです。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなった」(Ⅱコリント5:17)という十字架のキリストによる新しさです。マルコはそれを次のように描きました。農夫たちは主人から遣わされた僕たちだけではなく、最愛の息子をも殺したのです。それを受けてイエスは、この譬えを次のように結ばれました。

さて、ぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える』」(9−11) 。

イエスはこの譬えで、農夫たちが殺した最愛の息子こそ、新しい天と新しい地の「隅の親石」であると言われたのです! 第一ペトロは「隅の頭石」_十字架のキリスト_によってキリスト者は、「霊的な家に造り上げられる」と語りました(1:5)。キリスト者は十字架のキリストの上に築かれた「霊的な家」である! そのことを黙想していた時、創世記45章、ヨセフと兄弟たちとの和解の記事に導かれました。 ヨセフは17歳のとき、兄たちに殺されそうになり、九死に一生を得て、エジプトに奴隷として売られます。エジプトで囚人の世話をするという最底辺の生活を送って13年、ヨセフは王が見た夢、「7年の豊作の後、7年の大飢饉がある」を解き明かし、エジプトの宰相にまで上り詰めます。王の夢のごとく、7年の豊作の後、7年の大飢饉が全地を覆います。大飢饉の2年目、ヨセフは、エジプトに食糧を買い出しに来た兄たちと再開、身分を明かすというのが45章です。それはまことに感動的な場面です。

ヨセフは兄たちに言った。「わたしはあなたたちがエジプトに売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここに売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです!」(45:4−5)。同じ趣旨の言葉が50章20節でもう一度語られます。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです!」

マルコが「ぶどう園と農夫」の譬えで読者に伝えようとしたことはこのことではないのか。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです!」です。神は主人の最愛の息子を殺した農夫たちの悪を善に代えて全ての人を救われる! それは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見えるのです!
パウロはこの恐るべき不思議を次のように語りました。

一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。……神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(11:32−33、36)。

神は御子イエス・キリストを隅の親石とし、人間の罪により呪われた死の世界を、命溢れる祝福された世界、「霊的な家_新しい天と新し地_に造り上げられる」のです。「霊的な家」とはヨセフが自分を殺そうとした兄たちを赦したように、罪の赦しを生きる家、すなわち聖餐共同体のことです。エレミアスは言います。「食卓を共にする形で罪人が救いの共同体に迎え入れられているのであってこれは人を救う神の愛の使信を誰の目にも最も印象的な仕方で表現している。」

結びに、ナチス・ドイツの迫害を逃れてアメリカに亡命しているときに書き記されたシモーヌ・ヴェイユの言葉を聞いて終わりたいと思います。「神の〈愛〉が内にいきいきと生きている人々がこの世に存在するということを除いては、神は、この世に不在なのである。だからその人々は、憐れみによってこの世にあらしめられているのにちがいない。その人々が抱く憐れみこそは、この世における神の目に見える現存である。」

「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」

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